佐藤いぬこのブログ

戦争まわりのアレコレを見やすく紹介

50年前(1972〜3年)の若者たち

 今日は1972-3年(昭和47-8)の日本の若者を紹介しましょう。ちょうど50年前なので、彼らは今、70歳代でしょうか。 その頃の若者ってセピア色じゃなくて、むしろ派手!(人や地域によるだろうけれど)。撮影はアメリカ人Nick DeWolf→☆氏です。

▽顔をカールでふちどる時代。

07-282

▽小悪魔

07-300

▽政治家になりそう

09-374

▽お大事に

09-257

▽2022年には見かけない鮮やかさ

08-547

▽制服でしょうか。華麗な髪型

17-547

伝言板が活躍。「先に行く」「ボアに居る」

08-427

▽清楚✨

09-235

山田裕貴さんに似ている…09-230

▽お花の髪飾り

09-262

▽ニットっぽい羽織

17-659

▽ホテルマ

17-630

▽美人と髪どめ

07-280

田中真紀子

08-163

▽靴ズレに注意(その1)

07-098

▽靴ズレに注意(その2)

07-320▽脱ぐのがたいへんそう

08-490

▽ギロッ

09-281

▽もてオーラ

17-816

タートルネックの王子様

08-542▽モデル?うしろに見えるのは「日劇」=のちの有楽町マリオン有楽町「日劇」の外観で見る昭和【戦争から「来夢来人」🎶まで】 - 佐藤いぬこのブログ

17-511▽おしゃれ親子17-742▽ピタピタ

17-507 ▽何かのショー

07-290 ▽アンニュイな2人

09-355▽アンアン創刊は1970

08-060▽若者を演じていませんか

09-300

▽長髪

08-454瀬川瑛子さん風

17-789

▽この時代の中年は戦場の経験あり…(同じくNick DeWolf氏が撮影)

08-224

以上、1972-3年の写真でした。

実はこの時期、敗戦の焼け野原からまだ20数年しかたっていません。楽しそうに見える若者たちですが、家にかえれば「アンタを育てるのに、どんだけ苦労したと思ってるのッ💢💢」的なはげしいお説経が待っていたのかもしれませんね。

(撮影者Nick DeWolf氏は、wikiによるとテラダイン社→□の創業者。現在は親族が写真をネットにあげているようです。アーカイブのインスタ→☆もあるので、フォローしてみてください)

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縮んだお菓子と、体操の写真

 「子供の頃好きだったお菓子が、すごく小さくなっている」という嘆きをSNSで見かけます。なにごとも、小さくなるのは悲しいですよね。

 今日は、戦時中にグラフ誌の写真が、小さく(安く)なった例を紹介しましょう。画像は、すべてお金持ち向け雑誌『ホームライフ』からです。

戦争前の優美な体操写真

 まずは、日中戦争がはじまる前の優雅な写真を。

今も昔も、体操写真は「運動・健康」を隠れミノにして若い肉体を凝視できるものですが、上品さが売りだった雑誌『ホームライフ』も体操ページをしのばせていました。

▽こちらは昭和10年。知識階級のお嬢様が、デンマーク体操をしています。 お天道様の下で令嬢の脚を拝めるのは、体操のおかげといえましょう。彼女達は「母校 自由学園」で体操を教える予定とのこと。

『ホームライフ』大阪毎日新聞 昭和10年12月

▽こちらは“実業家の令嬢が自宅で体操している”設定の写真。いや、設定じゃなくて、本当に自宅で体操しているのかもしれないけれど…。

人生が明るく、いつも春のように…たまらなく嬉しい微笑がたえず口もとにほころんでいる、なんのクッタクもなくのびのびと成長して行く娘ざかり

『ホームライフ』大阪毎日新聞 昭和11年4月

▽宝塚のみなさん。特集のタイトルは「明朗・自由な健康美の検討」と、一見真面目ふう。薄着の写真には、いちいち医者や大学教授の文章(日本女性の体格の変化について一緒に考えようではないか、的な)が添えられています。これなら読者は安心して「健康美の検討」(笑)ができますね。

『ホームライフ』大阪毎日新聞 昭和11年8月

▽そして、日中戦争直前の昭和12年7月号。松竹少女歌劇「男装ティーム」の訓練風景です。軍国的訓練のテイで、めったにみられない角度から少女たちを拝めます。「男もかなはぬ大柄な少女たち」とは対照的に、指導する「在郷軍人さん」は(あえてなのか)小さい。

『ホームライフ』大阪毎日新聞 昭和12年7月

戦中の体操写真

 以上、令嬢や、宝塚、松竹少女歌劇の画像をご覧いただきました。しかし日中戦争が始まると、豪華だった『ホームライフ』の誌面が急に安っぽくなる。そしてその影響は体操のページにも及びます。

▽こちらは昭和13年「ある舞踏研究所に集った娘たち」の体操で、お茶を濁している例。「ある舞踏研究所」って、何ですか…?お菓子が、いつのまにか小さくなっていた”感がすごい!(もっとも、“令嬢や宝塚の体操より、無名ダンサーのエロス歓迎”の読者も多そう)。

『ホームライフ』(大阪毎日新聞昭和13年4月号

 この時期の編集後記には、誌面が寂しくなった理由として、“カメラマンが戦場に出払ってしまったから。最近は上流階級に取材を断られるから。”みたいな言い訳が書かれていました。

▽ちなみに、雑誌『ホームライフ』自体もサイズが縮んだあげく、廃刊になっています。ああ。(表紙は、【左】昭和14・東郷青児 【右】昭和16・小磯良平

それにつけても、2022年の日本は不安がいっぱい…。「お菓子」その他がこれ以上、縮みませんように!

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生き延びるための灸

お灸でメンテナンス(ほっこり編)

私がセルフ灸をするときは、関節に油をさすつもりでやっています。ブリキのロボットが自分自身を整備している感じです。

「人生50年」の時代ならともかく、関節の耐用年数を過ぎても生きていくからには、メンテしておいて損はない。関節の周りには(うまい具合に)重要なツボが集まっているし、一石二鳥!

 

ひと昔前(私が鍼灸の国家資格をとった頃・笑)は、お灸はお年寄りのもの…というイメージがまだ残っていたけれども、今は「ととのえ」「リラックス」「スローライフ」のカテゴリーに入っているようですね。インスタの#moxa(もぐさ=moxa)を見れば、“アジアの知恵で、ほっこり未病治✨”みたいな画像がいっぱい出てくるし。

 

▽🎵わたしは、夢みる、経穴人形🎵。灸はお茶の缶に入れておけば、湿気知らず。

お灸でメンテナンス(命がけ編)

近年「リラックス」「スローライフ」の雰囲気をまとうことに成功したお灸ですが、かつては極限状態を想定していたケースもありました。

たとえば、茨城にあった「満蒙開拓少年義勇軍」の訓練所では、少年たちが“満州に渡る前”にお灸の知識を教えていたのです。病院もない過酷なエリアに行くのだから、せめてお灸で健康管理してみてね、という感じだったらしい。(PDF 満蒙開拓少年義勇軍 内原訓練所の灸療所「一気寮」に関する調査報告

 

また、敗戦目前の婦人雑誌には、“生き延びるための灸”みたいな記事をちょいちょい見かけます。“医者もクスリも不足しているから、とにかくお灸で生き延びましょう”といった調子なんです。

胃腸さえ丈夫ならばたいていの病気を押し切ってゆけるものですが、近頃は医者や薬の不足に加えて衣食住の不如意から来る心身の疲れ、不衛生、不消化などを原因して、胃腸病患者が続出しております。胃腸病は特に灸の効き目が顕著ですから、重くならないうちに根気よく灸を据えてください。(昭和20年8月『主婦の友』)

「衣食住の不如意から来る心身の疲れ」なんてサラッと書いてあるけれど、よく考えてみれば昭和20年8月の記事。もはや「衣食住の不如意」どころか、絶体絶命の読者も多かったのでは…。

2022年8月の私たち

NHK 新型コロナウィルス データで見る感染状況 2022/08/10

今、戦時中の灸のあれこれを読んでいると「まア!昔って大変ねえ。医者やクスリが不足して、灸に頼るしかないなんて…」と、ヒトゴトにしたくなります。しかし、考えてみりゃ2022年8月も、なかなか悲惨な状況ですよ。(参考 新型コロナウイルス 日本国内の感染者数・死者数・重症者数データ|NHK特設サイト

いつしか「ほっこりのお灸」から「命がけのお灸」にフェーズが変わってきているのでしょうか。

 

▽ 私はブログで、できるだけ鮮明な画像をのせるように心がけています。が、敗戦間近の雑誌は紙質が悪すぎてムリ!

昭和20年7月『主婦の友

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日比谷公園で国葬をしていた時代

日比谷公園国葬風景(東郷平八郎)【昭和9年6月】

いきなり国葬が決まって、モヤモヤしています。

先日、日比谷公園国葬東郷平八郎)記事を読めるサイトを見つけたので、参考までにご紹介しますね。日比谷公園といえば、野音オクトーバーフェスト、鶴の噴水…みたいなイメージですが、かつては国葬が行われる場所でもありました。

▽これがそのサイト。雑誌をパラパラする感覚で読めます。昭和9年7月の東郷平八郎追悼特集国葬の記事だけではなく、亡くなる前の見舞客の写真などもビッシリですよ。(雑誌名に一瞬驚くけれど、今、世間で話題になっているのは「日報」。この雑誌は「画報」)

archive.org

日比谷公園葬儀場

▽上記の雑誌より引用してみましょう。こちら昭和9年6月5日の日比谷公園。それこそ、オクトーバーフェストをやっているような場所に、一般人が詰めかけている。

https://archive.org/details/sekai-gaho-1934.7/page/n28/mode/2up

午前九時四十分霊柩車は日比谷公園葬儀場に入った。(略)午後零時半から一般の拝礼が許された。朝早くから日比谷公園の周囲に詰めかけていた大群衆は、怒涛のように正門に殺到して、我れ勝ちに故元帥の霊前に額こうと凄まじい勢いでなだれ込んだ。

NHKの動画にも、同じ角度の映像あり。

www2.nhk.or.jp

▽記事のタイトル。「護国の大偉人、われらが東郷元帥」といった感じ。

国葬のあとは、日比谷公園から多磨墓地へ移動。(余談ですが当時の“多磨墓地”は、公園墓地という斬新なスタイルゆえ敬遠されていました。しかし、東郷平八郎以降はグッと知名度があがったとか。*1

https://archive.org/details/sekai-gaho-1934.7/page/n30/mode/2up

【参考:東郷平八郎イメージ画像】これは、『明治大正史 現代漫画大観(昭和3)』に出ていた東郷平八郎日露戦争の図(画:池田永治)。冒頭のアイキャッチに使った似顔絵(画:近藤浩一路)も同じ本から拝借しました。

『明治大正史 現代漫画大観』昭和3年

若者の「海軍葬」も日比谷公園で【昭和17年4月】

東郷平八郎リスペクトといえば、昭和の人気作家・獅子文六の『海軍』です。主人公は、東郷平八郎を“同郷(鹿児島)の英雄”として憧れる若者。『海軍』のモデルは真珠湾攻撃の軍神の1人で、日米開戦の翌年に朝日新聞に連載されました。

そんな主人公の「海軍葬」も、やはり日比谷公園で行われています。物語のクライマックスがこの海軍葬なので、葬儀の様子も詳しく描かれている。興味のある方は小説『海軍』を読んでみてくださいね。

▽これは実際の海軍葬記事

『写真週報』昭和17年4月22日号

『写真週報』昭和17年4月22日号

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以上、日比谷公園で行われた葬儀の例でした。九軍神の海軍葬から1年後の昭和18年山本五十六国葬日比谷公園で行われています。→NHKの動画に葬儀の様子有

そして、山本五十六の墓と東郷平八郎の墓は、どちらも東京市が造った多磨墓地のド真ん中、「名誉霊域」にあったりする。広〜い名誉霊域を使っているのは、たった3人の軍人だけ。(東郷平八郎山本五十六・古賀峯一*2

そういう感じなんです、国葬の時代って…。

▽多摩墓地(現・多摩霊園)内名誉霊域

昭和12年3月「公園緑地」庭園式墓地の再検討/『都市と緑』井下清著より

▽現在も、名誉霊域はそのままです(2022年撮影)。

president.jp

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*1:昭和12年3月「公園緑地」庭園式墓地の再検討/『都市と緑(井下清著』より引用「この新型墓地に対し、毀誉褒貶相半ばするというよりは、当局の非常識に呆れたという風な観方が相当にあった。(略)東郷元帥の国葬を迎うるに至っては、静寂なる郊外の霊域は日々幾千幾万参拝者を大型バスにて輸送されるに至って、神聖な霊域も紅塵万丈をあぐる如きこととなり、市内街路の如き管理を必要とするに至ったほどであって、その結果は全国的に多磨公園墓地の声価を高め、従って各地方において之が建設を企図するに至ったことは、認識の反映と言わなければならぬ。」

*2:古賀峯一は国葬ではありません

「勝った勝った」の提灯行列

提灯行列で東京じゅうが大騒ぎ

映画「アネット」(2021)のエンディングは、カラフルな提灯行列が印象的でしたね。実は、日本も盛んに提灯行列をしていた時期がありました。

たとえばこれは日中戦争がはじまった昭和12年の光景です(昭和12年12月13日/影山光洋撮影)。今日は戦中の提灯行列エピソードを紹介しましょう。

 『銀座と戦争』(平和博物館を創る会・編)

提灯屋さん大忙し

 東京中央区のお年寄りの座談会記録に、ズバリ、提灯屋さん(大正7年生)の証言があったので引用しますね。提灯屋さんはふだんヒマだけれど、非常時に忙しくなるのだとか。

【『中央区の昔を語る・11』 (1997年 中央区教育委員会)】

司会)戦争中はずいぶん提灯行列というのはありましたよ。一時、勝った勝ったという時期があったんですよ。それはもう東京じゅう大騒ぎで、提灯行列というのにずいぶん駆り出されて僕らも行ったものです。

 

川瀬)提灯屋は天皇陛下が亡くなったとか、御即位式があったとか、戦争があったとか、そういうことがないとあまり忙しくないんです。世の中あまり平和では、後は盆踊りとか、お祭りとかいうことですね。

ですから満州事変が始まって満州の国ができたとか、それからあとは北京が落ちた、上海が落ちた、また南京が落ちたというたびに宮城に向かって提灯行列という火の波を当時は行って、それに対する提灯を補給したような訳で、非常にその時分は提灯屋は忙しかったんです。

「北京が落ちた、上海が落ちた、また南京が落ちた」…当時を知る人の言葉って、ザックリしているけれど、時代の空気が冷凍保存されているなあ。

【参考画像】「南京陥落」を掲げた有楽町の日劇(現在の有楽町マリオン)。昭和12年12月13日/土門拳撮影。

『銀座と戦争』(平和博物館を創る会・編)

提灯行列の先頭は「一流の店」

提灯屋さんの証言の続きです。

私どもはその提灯行列の提灯を納めるので日立造船日立製作所三菱商事、三井、ああいう一流の店はやはり先頭に立って提灯行列をしましたもので、何万個納めるとかそういうことで本当に忙しかったということでございますけれども、別にそれがプラスになって残ったという事はありませんで、提灯屋どおり骨と皮で残っております。(「 中央区の昔を語る(11)」中央区教育委員会

この「一流の店は先頭に立って提灯行列をしました」という部分。“あ!やっぱりそういう感じ?”となりませんか?つい東京オリンピック聖火リレーを連想してしまう。

www.tokyo-np.co.jp

陥落したのは「僕の彼女」

参考までに、提灯行列をネタにした「陥落祝い」というタイトルの漫画をどうぞ。浮かれすぎ…(新潮社『日の出』昭和13年2月)

「おや、一体今日はどこが陥落した提灯行列で……」

「今日は僕の彼女が陥落したお祝いだーい」

全体はこんな感じ

▽少女雑誌にも提灯行列が。日中戦争開始から1年経過した頃の『少女倶楽部』(大日本雄弁会講談社 昭和13年8月)です。「見よ東海の空明けて♪」と「愛国行進曲」を口ずさみつつ提灯行列する少女たち。

「少女倶楽部」(大日本雄弁会講談社昭和13年8月

 以上、提灯行列のあれこれを紹介しました。

最後にオマケ。 提灯行列そのものではありませんが、昭和13年、銀座の大きなカフェで[提灯みたいな飾り付け]をしている様子です。奥の方に「漢口*1陥落」の文字が見えますね。手前には鉤十字の提灯も…

斎藤美奈子さんがいう「戦争初期はイケイケ気分」(『戦火のレシピ』岩波現代文庫)が満ちている写真です。今回、白黒写真を引用した写真集『銀座と戦争』(平和博物館を創る会・編)は、【戦争初期の浮かれた銀座】から【空襲で壊滅状態の銀座】まで盛りだくさん。おすすめです!

「カフェでも万歳」昭和13年11月玄光社/『銀座と戦争』(平和博物館を創る会・編)

▽銀座から有楽町にかけての浮かれ具合は、コチラもご覧ください。

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出刃包丁と、獅子文六『海軍』

青春感MAX(?)の物語、獅子文六『海軍』

 2022年7月、こんなドラマがはじまるそうです。公式ツイッターの謳い文句には 「青春感MAX 」とありました。

 さて「青春感MAX」といえば、ユーモア小説家の獅子文六が、本名の岩田豊雄で書いた『海軍』は、ある意味「青春感MAX」の(国策に沿った)小説といえるでしょう。

日米開戦の翌年、朝日新聞に連載された小説『海軍』(昭和17)は、ピュアすぎる若者2人が海軍士官を目指すストーリー。熱い友情で結ばれた2人ですが、1人は「軍神」に、もう1人は「海軍画家」になるのです。

天使じみた「主人公」と、情緒不安定な「副主人公」

 小説 『海軍』は、「主人公」と「副主人公」がいて、「SIDE:A」「SIDE:B」みたいになっているんですよ。(※「副主人公」は、“戦争中、海軍の詳しい話は書けない”という事情から、説明役として誕生したキャラ*1

「主人公」の真人は、着々と軍人の道を歩む温和な青年。

一方「副主人公」の隆夫は健康に難アリで、海軍士官になれなかった青年です。

 「主人公」はストイックな天使のよう。しかし「副主人公」はグッと読者に近い立ち位置で、感情移入もしやすいキャラ。なにしろ高円寺あたりでクヨクヨ劣等感にさいなまれている青年なのですから。

「副主人公」のサクセスストーリー

 今回は小説『海軍』を、あえて「副主人公」である隆夫くん中心に見てみましょう。

近眼で体力のない隆夫は、憧れだった海軍から拒否され、絶望して故郷の鹿児島を飛び出します。上京後は、海軍と正反対の仕事=画家を志してみるものの、これも上手くいかずノイローゼに。

海軍士官に、なれなかったばかりじゃない、画家にも、なれなかったのだ…

とイライラ・クヨクヨ。

ところが隆夫はストレス発散に出かけた海で、うっかり軍艦を見てしまいます。

そして「あれを描かないでどうするんだ…あんなにも、美しいものを!」と烈しく感動、自分をふった海軍への恨みを忘れ「おれは、海を描けばいい、軍艦を描けばいい!」と「海軍画家」を目指すのでした。

副主人公、海洋画を研究する

 こうして「海軍画家」を目指すことにした隆夫ですが、彼の絵の師匠はあいにく山を描く画家でした。だから海の絵に関しては、独自に研究する必要があった。隆夫が参考にした画家の1人が、東城鉦太郎(とうじょう しょうたろう)です。名前の雰囲気から、架空の人物かな?と思ってしまったけれど、実在の画家なんですね。

 ちなみに東城鉦太郎の絵は原宿の「海軍館」*2(場所はビームス原宿の向かい・東郷神社の隣)に展示されていました。詳細はコチラ→原宿にあった「海軍館」と、『なんとなくクリスタル』 - 佐藤いぬこのブログ

▽東城鉦太郎の絵はこういう感じです。(東城鉦太郎「日本海海戦」)

『海軍館大壁画史』昭和15年 海軍館壁画普及会

▽原宿の海軍館内部には、グルリと絵が展示されていた。

『海軍館大壁画史』昭和15年 海軍館壁画普及会

「恐ろしい宣伝力をもったポスターを描いてやる」

 ところが副主人公=隆夫ががんばって描いた軍艦の絵を、画家の仲間は馬鹿にするのです。それって作品というより、あなたのポスターですよね?といった調子で。

激怒した隆夫は

「よし、ポスターなら、ポスターでいい」「恐ろしい宣伝力をもったポスターを描いてやる」

と奮起します。

 やがて彼の絵は、なんと「海軍大臣賞」を受賞!ついに海軍省報道部に画家として採用されるのでした。

そうです。隆夫は、当初の目標だった海軍士官とは別のルートではあるけれど、憧れの海軍で働くことができたのです。

ああ隆夫くん、とうとう願いがかなってよかったね、となるはずですが、結果、彼は親友である主人公(軍神)の最期を描くはめに。←ここが物語のクライマックス。

真人は、もう軍神なのだ。永遠に23歳の海軍少佐であり、また、童貞の英雄なのだ。あらゆるものが、美しいのだ。真人を形づくるすべてが、美しくなければならない。

軍艦旗を讃美なすった」獅子文六の戦後

 さて、敗戦後の獅子文六はどうなったでしょうか。

「戦争終了後に於て、小説の後半を書き足す」*3つもりだった『海軍』は書き足されることはなかったし、副主人公のスピンオフも生まれなかった。

 そのかわりに獅子文六は、敗戦から5年後に自虐ネタ満載の短編『日の丸問答』(昭25)*4を書いています。

『日の丸問答』は、戦争中に「ちょいとアテた」文士が出てくるユーモア小説。文士のモデルは獅子文六自身です。(本名の岩田豊雄→「石田石造」、小説『海軍』→『軍艦旗』に変えているけれど)

彼は戦時中に「軍艦旗」という小説を書いて、ちょいとアテたのである。尤も、そのお陰で、戦後、パージになりかけて青い顔をしたという噂がある。

「ちょいとアテた」文士が、雑誌記者に詰め寄られるシーンもあります。

「しかし、先生なぞは、無論、国旗はご所持なのでしょう。軍艦旗をあれほど讃美なすったのですから」

「 先生も、今度こそ追放は免れませんな」(※追放=公職追放

詰められた文士(獅子文六)は

いや、ぼくは、なにも、軍艦旗をそれほど崇拝したわけではないですよ。

などと、オドオドしてみせる。

「まるで「夜這いをし損なった男が、朝になってシラを切るような調子」

「それで世間を繕ったつもりでいるところが、可愛いといえば可愛い。」

 『日の丸問答』は、いろいろな意味で特濃の小説です。“テヘッ”としている。ぜひ『海軍』とセットで読んでみてください。

出刃包丁と、獅子文六

 獅子文六『海軍』の熱狂的な愛読者に、『仁義なき戦い』の脚本家・笠原和夫がいました。少年時代の笠原和夫が、小説『海軍』の主人公に切なく恋している様子は、自伝「妖しの民」と生まれきてに描かれています。

しかし、激しく愛した作品だけに敗戦後のショックも大きかったらしい。以下は破滅の美学 (ちくま文庫)から。

そういえば、私も2度ほど出刃包丁を持とうか、と思ったことがある。ひとつは、戦争が終わって、海軍の復員兵として食うや食わずの生活をしていた頃で、戦時中、私たちの世代なら大方が感奮させられた小説『海軍』の著者岩田豊雄氏が、獅子文六ペンネームで『てんやわんや』『自由学校』を発表し、戦後社会のオピニオンリーダーとして脚光浴びているのが許せなかった。

海軍の実態は、岩田氏が書いたものとは全く違う。それはリアリストの岩田氏も認識していたはずである。それを隠して美化し、筆力を持って若者達を海軍に志向させ、それで死んだものも確実にいたはずだ。何が『てんやわんや』だふざけやがってと、20歳前後の荒んだ血で、岩田邸に乗りこもうと考えたのだが、これは空想に終わってしまった。今でも私は獅子文六に好感も敬意も持っていない。 ただ、小説『海軍』はいまだに座右に愛蔵している。

戦後も大活躍の獅子文六

それを許せないかつてのファン。

 短編『日の丸問答』で、自分自身を憎めないウッカリ者として描いたのは、このような「出刃包丁」対策だったのかもしれません。

まとめ

 以上、獅子文六が本名の岩田豊雄で書いた『海軍』を紹介しました。戦後も獅子文六は人気作家であり続けたし、原作は競って映画化・ドラマ化されています。

しかし、『海軍』に出てくるようなピュアな青年たちはどうなったのでしょう。

敗戦で心がポッキリ折れたまま?

笠原和夫みたいに「出刃包丁」を空想?

それとも、次いってみよう!と戦後モードに切り替えた?

気になるところです。

【参考】昭和17年獅子文六岩田豊雄として「海軍潜水学校」を訪れている記事。この記事からちょうど20年後、『コーヒーと恋愛』(可否道)の新聞連載がスタートします。

昭和17年12月『主婦之友・大東亜戦争一周年記念号』より

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*1:「副主人公」である隆夫は、“戦争中ゆえ、機密に触れるのは不可能”という事情から生まれたキャラでした。「小説『海軍』を書いた動機」/『海軍随筆(昭和18)』より引用します。「僕が小説「海軍」の主人公が、 遠洋航海以降、如何なる艦上生活をし、如何にしてあの立派な戦死を遂げたかという経路に、全然触れなかったのは、1つには素人の想像の及ばざることでもあったからだが、主としては、現在がまだ戦争遂行中であり、機密に触れることを許されなかったからである。 そこで僕は、そういうことの説明係として、副主人公を置くことにした。副主人公を通じて、読者に、許される限りのことを伝えたいと思った。そういう理由で、非常に隔靴掻痒の感があるかもしれないが、現在としてはやむを得ぬことである。天がもし僕に寿命を藉せば、戦争終了後に於て、小説の後半を書き足すこともできる。 」この時点では、戦争が終わったら思う存分「小説の後半を書き足す」予定だったのかもしれません。

*2:原宿の「海軍館」は、主人公が通う江田島海軍兵学校にあった「教育参考館」の説明部分にもチラッと出てきます。「真人の入校した頃に、東京の海軍館ほどの、美しい新古典派の石造建物が、新築されたのである。」

*3:「小説『海軍』を書いた動機」/『海軍随筆(昭和18)』より

*4:朝日新聞社獅子文六全集12巻』収録

1938年のベルリンで、宝塚少女歌劇団の歓迎会がありました【山口青邨『滞独随筆』】

ベルリン子の熱狂と、山口青邨『滞独随筆』

 話題の書店、神保町のPASSAGE by ALL REVIEWS*1山口青邨の『滞独随筆』(昭和15年三省堂)を見つけました。山口青邨は、“俳人で鉱山学者”。ギョッとする表紙ですが、今日はこの本をご紹介しましょう。

 『滞独随筆』は昭和12-14年頃(1937-1939)のドイツの様子を記した本で、中身は日記というか、vlogやブログの感覚で読めてしまいます。

 映画『ジョジョ・ラビット』の冒頭で、群衆がワー!キャー!とヒットラーに熱狂していたけれど、『滞独随筆』に描かれている光景は、まさにソレ。読むと『ジョジョ・ラビット』のオープニングがリアルに感じられるんです。

youtu.be

 著者である俳人山口青邨は、ドイツの「工業の心臓部」エリアで、工場や鉱山を見学する仕事をしており、ヒットラーを見ようとする大群衆にたびたび遭遇しています。群衆の渦に巻き込まれた時は、「ひょっとすると自分もここで死ぬかもしれない」と圧死を覚悟したとか。

 ベルリン子たちは、ヒットラーが来るとなると、朝のうちから、お弁当と折りたたみ椅子を持参してスタンバイ。宣伝相ゲッベルス「伯林の人々よ!街頭に出でよ、そして総統に感謝を捧げよ!」という告示、小旗を満載したトラック、家の窓から「ハイル・ヒットラー!ハイル・ヒットラー!」と叫ぶ人々、押すな押すなの小競り合い…。中には“棒の先に鏡をつけた装置”(きっと見た目は、自撮り棒)を使って、人垣の後ろから見物する人もいたそうですよ。

『滞独随筆』に描かれた宝塚少女歌劇団の歓迎会

 そしてちょうどこの時期(1938/昭和13)、宝塚がドイツ・イタリー公演を行っていました。宝塚の歓迎会には寿司や煮〆が用意され、ベルリン中の日本人が大集合!しかし「可愛い娘達」はすぐに帰ってしまい、残された日本のオジサン達が淋しさにおそわれています。

自分の娘たちか、妹たちが歌ったり踊ったりしてるのだと思ふやうな気がしたのです。 はるばる祖国からから来たんだ、いたわってやり度いといふ気持ちがしました。  (略)さっと帰られたものですから、お父さん、兄さん達は寂しくなったのは当然です。(山口青邨『滞独随筆』)

ちなみに、歓迎会で「お父さん、兄さん」気分になっていた山口青邨は、当時アラフィフでした。

▽『滞独随筆』から「虚子先生への手紙」(1938年11月10日付)より

『水晶の夜、タカラヅカ

 上記のエピソードを見たときは、“せっかくの歓迎会なんだから、宝塚の乙女達もすぐに帰らないで、もうちょっと長い時間いてあげたらよかったのに“と思いました。

 しかし『水晶の夜、タカラヅカ』という本を読んで、考えが変わりましたね。これは歓迎会に長居できないわ!と…。

 宝塚のドイツ公演は(まあ、同盟国だし)なんとなくスムーズに行われそうじゃないですか?ところがどっこい、日独でさまざま行き違いがあり、直前まで“公演できるの?できないの?どっち?”みたいな綱渡りがすごいんですよ。

 会場は決まらないし、練習もままならない。しかもヨーロッパは寒い。いやあ、かなりキツそう。以前、プロインタビュアー吉田豪が“芸能人の本を読む時は、同じ出来事を複数の本で読むと、立体的になってくる”と言ってましたけど、たしかに複数の本で読むって大切ですね!

水晶の夜、タカラヅカ

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きびきびしたヒットラー

 最後に山口青邨『滞独随筆』に話を戻しましょう。山口青邨は、昭和12年2月に日本を発ち、昭和14年4月に帰国する2年数ヶ月の間、ベルリンを拠点として欧米に滞在していました。

 「ちょうど戦争が始まる前のいろいろな複雑な情勢の時にぶつかって」おり、その見聞を昭和15年3月に出したのが『滞独随筆』というわけです。だから当然、現在とは歴史の見え方が違っている。たとえば「滞独」しているうちに「きびきび」したヒットラーを好きになってしまったり…。

ヒットラーは今、英雄になりつつある。私はむかふに行くまではヒットラーは好きではなかった。しかし2年の間に、ヒットラーを眼のあたりに見たり、演説を聴いたり、きびきびと仕事をしたり、最後には一兵卒として先頭に立って敵地に進軍したりするところを見てるうちに、たうとう好きになってしまった。

 この「好きになってしまった」気持ちは、『滞独随筆』の装丁にもあらわれていて、カバーをとるとこんな感じなんですよ。『滞独随筆』は「日本の古本屋」にもあります。ぜひ『水晶の夜、タカラヅカ』とあわせて読んでみてください!

▽戦中・戦後の宝塚劇場(日比谷)についてはこちらを。

narasige.hatenablog.com

 

*1:「古書日月堂」の本棚にありました。

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