佐藤いぬこのブログ

戦争まわりのアレコレを見やすく紹介

関東大震災前の地図で、タイムトラベル

大正7年(1918)の観光地図

f:id:NARASIGE:20200531184430j:plainこれは、大正7年(1918)の観光地図だそうです。

flickrより

築地市場がないのに、万世橋はある地図

はじめ見たとき「ああ、敗戦後に作られた進駐軍用の観光マップね」と思いました。しかし拡大してよく見ると「あれ、晴海がない!ん…?築地市場もない!勝どき橋もない…。?待って待って!これ、関東大震災前の地図だ!」と、びっくりしたものです。

 

この地図は「築地市場がない!」「万世橋駅がある!」など、当然あるはずのものが無かったり、今は無いものが現役だったりする。いろいろな「ある!」「無い!」を探して遊ぶと面白いですね。

 

そりゃあ、日本語の地図のほうが詳しいのでしょうけれど、日本語だと「牛込区」等の「区」の字が難しい「區」だったりして、とっつきにくい。でも、英字なら逆に読みやすいし、「オー、小石川ボタニカルガーデンーね!」と異国の旅人気分になれるのです。

新宿と新大久保 

拡大してみると、新宿が見切れそう!新宿、冷遇されてます。

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獅子文六のエッセイ「ちんちん電車」に、

新宿なぞは、市外であり、場末の代表であって、東京人は大久保のツツジでも見学する時でなければ、そんな線へ乗ることもなかったろう

とあるのを読んだ時は、「新宿が場末の代表って、言い過ぎじゃないかなあ」と思ったけれど、この地図の新宿の扱いをみれば納得です。そして新大久保にはちゃんと「大久保のツツジ」=「AZALEA  GARDEN」が載っている。

 東京駅周辺

東京駅構内に、JTBJapan Tourist Bureauオフィスが!

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 築地周辺

築地周辺。築地市場無し(まだ海軍の敷地)。勝どき橋無し。立教(セントポールスクール)と聖路加病院と、歌舞伎座はあり!

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この地図、flickrにログインすれば、かなり拡大できます。自粛期間中に、ぜひ無料の時間旅行を楽しんでください。

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ブルーインパルス、陸軍戸山学校軍楽隊

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小津映画と、ブルーインパルス

河野大臣とブルーインパルスについて、賛否両論が巻き起こっていましたね。

www.asahi.com

ブルーインパルス」で検索していたら、行進曲「ブルーインパルス」があることを知りました。作曲者・斎藤高順は、小津映画の音楽(「東京物語」「秋刀魚の味」など)を手がけていたとか。吹奏楽に縁のない私は、聞いてビックリ。東京物語の曲調と全然違う!

www.youtube.com

 

 軍楽隊は、東京大空襲の直後にもパレード していた!

行進曲「ブルーインパルス」の作曲者・斎藤高順は、芥川也寸志團伊玖磨と同じく陸軍戸山学校出身。その軍楽隊は、なんと東京大空襲の直後にも、人々を鼓舞するためにパレードをしていたのだとか!!

news every.-「ミンナが、生きやすく」より。

1945年3月10日、東京大空襲の日。

実はこの日は「陸軍記念日」で

軍楽隊は毎年恒例のパレードを都心で行う予定にしていました。

しかしその日の未明に、東京への大空襲があり、

下町を中心に東京は焼け野原となったのです。

果たしてこんな状況でパレードをしていいのか。

軍楽隊のメンバーは躊躇したといいます。

「とにかく陸軍省にお伺いを立てようと聞いてみたら、

『士気を鼓舞するためにやれ』という命令が下って。

パレードに出ると、道が消防の水でびしょびしょに濡れている

状態だったのを覚えています」


大空襲直後、町は焼け野原となりましたが、

軍楽隊は人々の沈んだ気持ちを鼓舞するために、

靖国神社を出発し、神田、日本橋、銀座など街なかを

3時間休むことなく行進しました。

「人々の沈んだ気持ちを鼓舞するため」って、音楽のパワーにも限界がありますよ!?と言いたくなります。

陸軍戸山学校音楽隊と「軍国のリズム」

ちなみに、こちらは手持ちの雑誌にあった陸軍戸山学校軍楽隊の記事(「ホームライフ」昭和12年11月号)。日中戦争勃発から間も無い頃なので、「軍国のリズム」というタイトルが“勇ましい・たのもしい”というニュアンスで使われています。

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時局下の緊張と興奮を美しい戦時交響曲に高めてゐる

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(音楽の力を重視しているといえば、マッドマックス。こちらの音楽隊も「時局下の緊張と興奮を美しい戦時交響曲に高めてゐる」のでしょうか?)

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伊勢丹の近くで軍楽隊がパレードしていた時代

私の母は幼い頃、陸軍戸山学校の近くに住んでいました。なので新宿伊勢丹近くで軍楽隊を見たんですよ。(戸山学校と伊勢丹は、すぐそば)。その記憶スケッチがこちら。裏面のメモには「軍隊が時々、月に一度位、ザックザックと通る。軍楽隊も交えて沢山の兵隊さんがパレードを行う。壮観なものだった」とありました。

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母は「画力がなくて」と嘆いていましたが、まあ雰囲気は伝わってきます(笑)

ピクニックat戸山ヶ原

そうそう、吉屋信子の短編『女の子』(小さき花々 /河出文庫収録)にも、陸軍戸山学校のある「戸山ヶ原」が登場していました。お嬢様2人が、お弁当を持って戸山ヶ原でピクニック。昭和10年に「少女の友」に掲載された作品です。

「あのね、あなた戸山ヶ原御存知?」

私は、その頃、毎日省線電車の窓から、戸山ヶ原を見て、学校へ通っていた、というのは、登校時間の省線は腰かけられた事なんか、決してなかったし、立っていればいやでも、窓から、その原っぱが見えるのだった。(略)

騎兵が、馬で松の木立の間を駆け廻る戸山ヶ原、塹壕を掘って、歩兵が演習していることもある。雪の降った朝は、物珍しそうに、スキーを持ち出して、そのゆるい傾斜で滑っている人影のある冬の戸山ヶ原、そして今頃の青草が萌えて、朝から、うらうらと陽がさし、陽炎が燃えて、まどろみたいような、春の戸山ヶ原。

 「陽炎が燃えて、まどろみたいような、春の戸山ヶ原」って、のどかですな。この作品は昭和10年。しかし、昭和12年日中戦争勃発後なら“歩兵の演習を眺めながらピクニック”なんて、まず無理でしょう。

それにしても、ピクニックの10年後、軍楽隊が焼け野原を行進することになるとはね…。

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特撮に出てくる本棚

昭和30年代の特撮に出てくる事務所の本棚や机が好きです。ほとんどが木製だから。現在ならスチールであるはずのオフィス家具が、当たり前のように木製なんですよね。

 

これは「美女と液体人間」(昭和33・1958)に出てくる研究室の本棚。ガラス戸と引き出し部分の組み合わせ。

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同じく「美女と液体人間」の警察の本棚。こちらもガラス戸と引き出しの組み合わせです。実は、この本棚と似た品をアンティーク屋で購入し、大喜びで使っています。

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おまけ。ファイルに注目!ライオン事務器の製品に見えます。コクヨじゃないんだ…。このファイルは今もよく見かける灰色のスチールキャビネットに入ってました。この時代のアスクル的なカタログがどうなっていたか知りたい!ライオン事務器の歴史資料室「ROUTE 1792」に行きたい!この画像は「怪獣大戦争」(昭和39・1964)から。f:id:NARASIGE:20200521113848j:plain

現在のライオン事務器フラットファイル。半世紀以上前からほとんど変わっていない?

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お金持ちと、多摩川

私は学生時代の数年間、稲田堤〜登戸エリアの駅を利用していました。しかしどの駅も完全に通過地点。10代の女子の夢を何ひとつ満たしてくれない場所だったのです。

 

しかし、獅子文六の小説を読んでいたら稲田堤・稲田登戸エリアが"金持ちの別荘地から見える風景"として登場するのでびっくり。私の狭い記憶では0.000001ミリも別荘感はなかったのですが…たとえば獅子文六の「楽天公子」(昭和11年雑誌連載)には「女猟銃家」の別荘と、稲田堤の桜が出てきます。有閑階級が、稲田堤の桜を対岸から眺めているのです。

車はいつか下高井戸を過ぎて、両側の麦畑の青い縞に、飛模様のような桃の花…エンジンの音でわからないが、雲雀もきっと啼いているにちがいない。やがて調布の少し前から、左へ曲がると、松林を廻らせた瀟洒な一劃があって、クリーム色の外壁が日に暖かいヴィラ風の洋館が見える。(略)別荘のことで、応接間というのではないが。15畳くらいの広い洋室へ通されると、ヴェランダを越して、目一杯に多摩河原が拡がり、稲田堤の端らしい桜花が、七分の綻びを見せている。

「いい景色ですなア」

「戸羽さんは景色より、こっちの方がいいンでしょう」と花子女史は女中の持ってきたウイスキーと炭酸を、眼でしめした。

 同じく獅子文六の「自由学校」には「稲田登戸」の別荘が登場します。敗戦から5年目に書かれた小説ということもあってか、「稲田登戸」の別荘の主はアメリカ育ちの茂木夫妻。彼らは占領下の日本で"事業"をおこし、景気の良い生活をしています。茂木夫妻の車は「外国人でなければ、目下、乗れないような」長い図体の車だし、「相模ゴルフ ・コースへラクに行ける」という理由で別荘を買っている。そんな別荘に、戦前は上流階級だった女性(戦後はミシンで内職)が、おっかなびっくり訪問するシーンがあります。以下引用しますね。

また英文学のお話なぞ、伺わせて頂きたく、今度の日曜、友人茂木君の稲田登戸別荘へ、お誘い申し上げます。11時に茂木君の車が渋谷駅前にお迎えに出るそうで、小生も同所で、その時刻にお待ち申し上げています。

 

車が、コンクリートの長い橋を渡る時に、カンカン照りの河原に、黒豆を播いたようなハダカや、浅い水の上のボートなどが、眺められた、それらは、少しも、涼しさを感じらさせず、そして貧乏くさい光景だった。駒子は、その人々と、同じ仲間である自分を、忘れた。(略)

 

「あの山の上なんですよ、茂木の家は…」辺見が左手のコンモリとした丘を指すために、身を寄せた。(略)もと、ドイツ人が建てた家だというが、どちらかといえば、英国風のコテージで、玄関の様子もさっぱりしていた。(略)すぐ、広間に出た。二つの大きな室が、サルーンとも、食堂ともつかず、打ち抜いて使われているらしかった。そこを通り抜けて、広いテラスへ出ると。眼の下に、河と鉄橋が見え、幅の広い風が吹き抜けていった。

「まア、いい景色…」

駒子は、思わず、つぶやいた。 

 

↓稲田登戸駅(現・向ヶ丘遊園駅)については、こちらが詳しいです。

smtrc.jp

 

敗戦をはさんだ「楽天公子」と「自由学校」。いずれも別荘のウリは多摩川の光景なんですね。(また、古賀政男稲田堤へピクニックに行ったことが「丘を越えて」作曲のきっかけになったとか。かつての稲田堤は、イケている場所だったのでしょうか!!)

 

【オマケ】昭和4年発行のエッセイ漫画(凸凹放送局・池部 鈞)にも「稲田堤」を発見!なんと稲田堤が、日比谷公園や上野公園と同格で出ている〜。信じられません。

そして「新興花見風景」(獅子文六)では、軍需成金一家が「飛鳥山稲田堤もいいが、雑踏していけない。会社員などが泥酔して、醜態を演じるから不愉快だよ。」と、稲田堤を避けるシーンさえあります。ちょっと!私の知っている稲田堤とずいぶん違うんですけど!

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「稲田堤」と同じ章に、「日比谷公園」が!

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東京行進曲・モスコー行進曲

獅子文六の「浮世酒場」(昭和10年新青年」連載)には、シベリア帰りの男が酒場で、クレムリンやモスコーでの経験を虚実とりまぜて話すシーンがあります。以下引用。

「非常時どころか、ジャズで踊って、ウオッカで更けて、明けりゃ闘士の涙雨という、モスコー行進曲が大流行だ。ダンスときたら青年労働者は眼がないね。(略)まず、隗より始めよというので、スターリンからして、ダンスの稽古をしている。彼氏不器用でろくろくワンステップも出来ないが、タンゴが踊れるまで5ヶ年計画でやるそうだ。」 

この「ジャズで踊って、ウオッカで更けて、明けりゃ闘士の涙雨」のモトは「東京行進曲」の「ジャズで踊って リキュルで更けて あけりゃダンサーの涙雨」なんでしょうね。私は東京行進曲にも、モスクワにも、すごく疎いので、きっとココが笑いどころなんだろうな、と想像することしか出来ませんが…!また、この男は「国境方面の緊張」についてこう語ります。

「いろいろ、面白い話もあるだろうが、まずは国境方面の緊張の工合は?」

「そりゃア、物凄くやっとるよ。奴等は万里の長城のカケラみたいなやつを、到るところで建造して、いざと云えばブッ放す勢いだ。飛行機はブーブー、タンクはガラガラ、実に景気がいい。歩騎十一軍団空軍四百機が集中しとるのだ。しかし我が軍の方は如何というと…」外套氏はここまで云いかけて、俄かに「円酔」の店内を見回しました。眼光ハヤブサのごとく鋭く光ったので、おでん鍋の前の主人が慌てて首を縮めました。

この「国境方面の緊張」「飛行機はブーブー、タンクはガラガラ」についての参考画像をネットで見つけました。日中戦争開始後の昭和12年秋の雑誌付録です。婦人雑誌の付録なので、おそらくお母さんが子供に見せるのでしょう。「一目でわかる支那事変と日ソ関係絵地図」f:id:NARASIGE:20200520113514p:plain

↓拡大画像。「飛行機はブーブー」……

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↓拡大画像。「タンクはガラガラ」……

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↓そしてソヴィエト連邦部分に描かれているトナカイとキツネ。この絵地図を担当した石田英助は、戦後の幼児向け雑誌にも可愛い絵を沢山描いている方なんですね。

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 絵地図を担当した石田英助の平時の絵。可愛すぎる。(「こども家の光」 昭和31年8月)

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道しるべとしての富士山

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maraudersREVsmall pixel | mike skidmore | Flickr


獅子文六が、敗戦後、読売新聞の誘いで「平和号」という飛行機に乗った時のエッセイに、"道しるべ"としての富士山が出てきました。

じきに駿河湾。バカにならぬ景観である。富士山はどうしても、日本本土のヘソである。しかし、空からの侵入者には、さぞ道しるべとして、お役に立つだろう。(「へなへな草子」より「南の空の旅」昭和27年) 

 

この、富士山を"道しるべ"とする「空からの侵入者」については

中島飛行機物語―ある航空技師の記録にも書かれています。

はるばるサイパンから飛んでくるB29は、ひときわ目立つ富士山を目標に飛来してきて、富士山の手前で日本の迎撃戦闘機群を避けるため1万メートルまで上昇する。そして、中央線に沿って東上し、三鷹上空で武蔵製作所へほとんど全弾を落とし、すぐそばの荻窪製作所へは残弾を落とし、日本の戦闘機と高専しながら九十九里浜から日本を離脱、サイパンへ帰るのがコースであった。

(略)武蔵野製作所の上空の雲が厚い時B29は、レーダーを頼りに宮城へ向けて投弾した。あいにくその弾がそれて神田の一帯に落ち、神田っ子はびっくりした。(略)荻窪製作所のそばの西荻窪駅周辺の商店街は、武蔵野製作所をめがけて投弾された連続9回の中島爆撃に震えあがり、多くの店が地方へ転居してしまった。たまたま移転先を血眼で探していた神田っ子は西荻の空き家を見付け、われ先にと引っ越してきた。

 

サイパン→富士山→三鷹西荻窪九十九里浜サイパンのコース。中央線沿線の住民なら、うわあ……と想像できるコースですね。また、中島飛行機への爆撃の結果、西荻窪と神田がシャッフルされたという点も、うわあ…です。

 

参考画像:昭和17年(1942)のJapanese Empire

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これは、立川基地の米軍司令官室近くにあったという富士山とB 29の写真。やっぱり道しるべなのね…

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羽田空港と、半円形のサンルーム(獅子文六「胡椒息子」)

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獅子文六『胡椒息子』に登場する羽田空港と、半円形のサンルーム

“ヘリコプターで東京遊覧”ってバブリーな響きがありますが、獅子文六の『胡椒息子』(昭和13)には、金持ちの子供が「エア・タクシー」に乗って「東京の空の散歩」をこころみる場面があるんですよ。昭和初期の話なのに、えらく豪勢ですよね!

結局「エア・タクシー」には乗り損ねるのですが、『胡椒息子』から当時の羽田の様子を引用してみましょう。

染めつくように青い行手の空に、純白な、角砂糖を積んだような建物が見えた。(略)

そこはまるで小さなホテルのロビイのように、清潔で、明るかった。半円形のサンルームが正面にあって、そこから何万坪とも知れない広い草原と、青い東京港が見渡れさた。隣に喫茶室があった。(略)

飛行機に乗り降りする旅客達が、一憩みする場所であるらしい。

「半円形のサンルーム」を持つ「角砂糖を積んだような建物」!すてきじゃありませんか。どんな感じかなあ?思っていたら、藤田加奈子@foujika さんのツイートに画像を発見しました。さすが…

獅子文六『胡椒息子』連載時の雑誌を入手しました。羽田の挿絵はこんな風。

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昭和12年11月号「主婦之友」

▽拡大したところ。うっすらとサンルームが描かれています。

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昭和12年11月号「主婦之友」

▽そういえば、庭園美術館昭和8年竣工)にも半円形のサンルームがありましたっけ。庭園美術館(旧朝香宮邸)も"角砂糖を積んだような建物"の仲間でしょうか。

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羽田と、HANEDA  ARMY AIR BASE

『胡椒息子』は昭和12年8月号から昭和13年9月号まで、約1年間にわたって「主婦之友」に連載されました。連載がスタートするやいなや日中戦争がはじまったわけですが、序盤では金持ちの贅沢ライフも(ぎりぎり)書くことができたのです。しかし、連載からたった8年後に敗戦。羽田空港は激変し、「半円形のサンルーム」も過去の夢になりました。

接収されていたころ

▽敗戦後、羽田が接収されていた頃の写真はこちら。中央にケーキのような形が見えますか?ここが「半円形のサンルームが正面にあって」と書かれた部分だと思われます。Base Operations, Haneda Japan

f:id:NARASIGE:20210623104812p:plain▽拡大画像。半円形の部分にHANEDA  ARMY AIR BASEの看板が立ってます。

f:id:NARASIGE:20210623104206p:plain▽参考までに、これも羽田(1951)。「OFFICERS MESS HANEDA  AIR BASE」(将校専用の食堂)。

1951 Tokoyo, Japan  ▽「HANEDA FIELD」の看板。Air Transport Command, Haneda Field Tokyo, Post WW2

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以上、羽田空港「半円形のサンルーム」の戦前・戦後でした。『胡椒息子』に描かれたモダン生活は、あっけなく終了したのです。そして敗戦後は

「国は敗れ、山河とパンパンだけが残った」(獅子文六『やっさもっさ』昭和27)

という状態に。

▽『胡椒息子』(昭和13)以降の獅子文六作品には、日中戦争の長期化とともに「時局の急転」「ご時勢」「時節柄」などの単語が頻繁に出てくるようになります。その過程を冊子にまとめました。よければご覧ください。

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