佐藤いぬこのブログ

戦争まわりのアレコレを見やすく紹介

東京行進曲・モスコー行進曲

獅子文六の「浮世酒場」(昭和10年新青年」連載)には、シベリア帰りの男が酒場で、クレムリンやモスコーでの経験を虚実とりまぜて話すシーンがあります。以下引用。

「非常時どころか、ジャズで踊って、ウオッカで更けて、明けりゃ闘士の涙雨という、モスコー行進曲が大流行だ。ダンスときたら青年労働者は眼がないね。(略)まず、隗より始めよというので、スターリンからして、ダンスの稽古をしている。彼氏不器用でろくろくワンステップも出来ないが、タンゴが踊れるまで5ヶ年計画でやるそうだ。」 

この「ジャズで踊って、ウオッカで更けて、明けりゃ闘士の涙雨」のモトは「東京行進曲」の「ジャズで踊って リキュルで更けて あけりゃダンサーの涙雨」なんでしょうね。私は東京行進曲にも、モスクワにも、すごく疎いので、きっとココが笑いどころなんだろうな、と想像することしか出来ませんが…!また、この男は「国境方面の緊張」についてこう語ります。

「いろいろ、面白い話もあるだろうが、まずは国境方面の緊張の工合は?」

「そりゃア、物凄くやっとるよ。奴等は万里の長城のカケラみたいなやつを、到るところで建造して、いざと云えばブッ放す勢いだ。飛行機はブーブー、タンクはガラガラ、実に景気がいい。歩騎十一軍団空軍四百機が集中しとるのだ。しかし我が軍の方は如何というと…」外套氏はここまで云いかけて、俄かに「円酔」の店内を見回しました。眼光ハヤブサのごとく鋭く光ったので、おでん鍋の前の主人が慌てて首を縮めました。

この「国境方面の緊張」「飛行機はブーブー、タンクはガラガラ」についての参考画像をネットで見つけました。日中戦争開始後の昭和12年秋の雑誌付録です。婦人雑誌の付録なので、おそらくお母さんが子供に見せるのでしょう。「一目でわかる支那事変と日ソ関係絵地図」f:id:NARASIGE:20200520113514p:plain

↓拡大画像。「飛行機はブーブー」……

f:id:NARASIGE:20200520125737p:plain

↓拡大画像。「タンクはガラガラ」……

f:id:NARASIGE:20200520125749p:plain

↓そしてソヴィエト連邦部分に描かれているトナカイとキツネ。この絵地図を担当した石田英助は、戦後の幼児向け雑誌にも可愛い絵を沢山描いている方なんですね。

f:id:NARASIGE:20200520114039p:plain

 絵地図を担当した石田英助の平時の絵。可愛すぎる。(「こども家の光」 昭和31年8月)

f:id:NARASIGE:20201212140917j:plain

narasige.hatenablog.com

 

道しるべとしての富士山

f:id:NARASIGE:20200518085430j:plain

maraudersREVsmall pixel | mike skidmore | Flickr


獅子文六が、敗戦後、読売新聞の誘いで「平和号」という飛行機に乗った時のエッセイに、"道しるべ"としての富士山が出てきました。

じきに駿河湾。バカにならぬ景観である。富士山はどうしても、日本本土のヘソである。しかし、空からの侵入者には、さぞ道しるべとして、お役に立つだろう。(「へなへな草子」より「南の空の旅」昭和27年) 

 

この、富士山を"道しるべ"とする「空からの侵入者」については

中島飛行機物語―ある航空技師の記録にも書かれています。

はるばるサイパンから飛んでくるB29は、ひときわ目立つ富士山を目標に飛来してきて、富士山の手前で日本の迎撃戦闘機群を避けるため1万メートルまで上昇する。そして、中央線に沿って東上し、三鷹上空で武蔵製作所へほとんど全弾を落とし、すぐそばの荻窪製作所へは残弾を落とし、日本の戦闘機と高専しながら九十九里浜から日本を離脱、サイパンへ帰るのがコースであった。

(略)武蔵野製作所の上空の雲が厚い時B29は、レーダーを頼りに宮城へ向けて投弾した。あいにくその弾がそれて神田の一帯に落ち、神田っ子はびっくりした。(略)荻窪製作所のそばの西荻窪駅周辺の商店街は、武蔵野製作所をめがけて投弾された連続9回の中島爆撃に震えあがり、多くの店が地方へ転居してしまった。たまたま移転先を血眼で探していた神田っ子は西荻の空き家を見付け、われ先にと引っ越してきた。

 

サイパン→富士山→三鷹西荻窪九十九里浜サイパンのコース。中央線沿線の住民なら、うわあ……と想像できるコースですね。また、中島飛行機への爆撃の結果、西荻窪と神田がシャッフルされたという点も、うわあ…です。

 

参考画像:昭和17年(1942)のJapanese Empire

f:id:NARASIGE:20200518072232j:plain

 

これは、立川基地の米軍司令官室近くにあったという富士山とB 29の写真。やっぱり道しるべなのね…

f:id:NARASIGE:20200531113150j:plain

 

 

narasige.hatenablog.com

 

 

 

羽田空港と、半円形のサンルーム(獅子文六「胡椒息子」)

f:id:NARASIGE:20210623111428p:plain


獅子文六『胡椒息子』に登場する羽田空港と、半円形のサンルーム

“ヘリコプターで東京遊覧”ってバブリーな響きがありますが、獅子文六の『胡椒息子』(昭和13)には、金持ちの子供が「エア・タクシー」に乗って「東京の空の散歩」をこころみる場面があるんですよ。昭和初期の話なのに、えらく豪勢ですよね!

結局「エア・タクシー」には乗り損ねるのですが、『胡椒息子』から当時の羽田の様子を引用してみましょう。

染めつくように青い行手の空に、純白な、角砂糖を積んだような建物が見えた。(略)

そこはまるで小さなホテルのロビイのように、清潔で、明るかった。半円形のサンルームが正面にあって、そこから何万坪とも知れない広い草原と、青い東京港が見渡れさた。隣に喫茶室があった。(略)

飛行機に乗り降りする旅客達が、一憩みする場所であるらしい。

「半円形のサンルーム」を持つ「角砂糖を積んだような建物」!すてきじゃありませんか。どんな感じかなあ?思っていたら、藤田加奈子@foujika さんのツイートに画像を発見しました。さすが…

獅子文六『胡椒息子』連載時の雑誌を入手しました。羽田の挿絵はこんな風。

f:id:NARASIGE:20210803071859j:plain

昭和12年11月号「主婦之友」

▽拡大したところ。うっすらとサンルームが描かれています。

f:id:NARASIGE:20210803071900j:plain

昭和12年11月号「主婦之友」

▽そういえば、庭園美術館昭和8年竣工)にも半円形のサンルームがありましたっけ。庭園美術館(旧朝香宮邸)も"角砂糖を積んだような建物"の仲間でしょうか。

f:id:NARASIGE:20200617111949j:plain

羽田と、HANEDA  ARMY AIR BASE

『胡椒息子』は昭和12年8月号から昭和13年9月号まで、約1年間にわたって「主婦之友」に連載されました。連載がスタートするやいなや日中戦争がはじまったわけですが、序盤では金持ちの贅沢ライフも(ぎりぎり)書くことができたのです。しかし、連載からたった8年後に敗戦。羽田空港は激変し、「半円形のサンルーム」も過去の夢になりました。

接収されていたころ

▽敗戦後、羽田が接収されていた頃の写真はこちら。中央にケーキのような形が見えますか?ここが「半円形のサンルームが正面にあって」と書かれた部分だと思われます。Base Operations, Haneda Japan

f:id:NARASIGE:20210623104812p:plain▽拡大画像。半円形の部分にHANEDA  ARMY AIR BASEの看板が立ってます。

f:id:NARASIGE:20210623104206p:plain▽参考までに、これも羽田(1951)。「OFFICERS MESS HANEDA  AIR BASE」(将校専用の食堂)。

1951 Tokoyo, Japan  ▽「HANEDA FIELD」の看板。Air Transport Command, Haneda Field Tokyo, Post WW2

f:id:NARASIGE:20200517093044p:plain 


以上、羽田空港「半円形のサンルーム」の戦前・戦後でした。『胡椒息子』に描かれたモダン生活は、あっけなく終了したのです。そして敗戦後は

「国は敗れ、山河とパンパンだけが残った」(獅子文六『やっさもっさ』昭和27)

という状態に。

▽『胡椒息子』(昭和13)以降の獅子文六作品には、日中戦争の長期化とともに「時局の急転」「ご時勢」「時節柄」などの単語が頻繁に出てくるようになります。その過程を冊子にまとめました。よければご覧ください。

narasige.hatenablog.com

narasige.hatenablog.com

narasige.hatenablog.com

 

朝鮮戦争・聖路加病院・立川基地

f:id:NARASIGE:20211225140748p:plain

聖路加病院を外側と内側から見る

 プロインタビュアー・吉田豪さんが[芸能人の本を読む時は、同じ出来事を複数の本で読むと、立体的になってくる]とラジオで言っていました。例えば、ある宗教について「勧誘する側の芸能人が書いた本」と、「その人に勧誘された経験のある芸能人が書いた本」を読み比べると、立体的になるのだとか…。

 

 私も吉田豪さんの真似して、何かを「立体的」にしてみようと思います。今回は朝鮮戦争(昭和25-28)の時期、アメリカに接収されていた「聖路加病院」について、2人の証言を並べてみますね。「聖路加病院」は、東京都中央区にある大きな病院です。

2人の証言とは

(1)朝鮮戦争の負傷兵を、聖路加病院まで連れてくる警官

(2)当時の聖路加病院を内側から見た看護師

▽これが聖路加病院。星条旗と、クリスマスデコレーションと。

Tokyo 1954 | by George Washenko | Kris_41 | Flickr

f:id:NARASIGE:20200727140121j:plain

(1)朝鮮戦争の負傷兵を、立川基地から聖路加病院まで連れてくる警官

まず、朝鮮から立川基地に「空輸」された負傷兵を、聖路加まで運ぶ様子をご紹介しましょう。日本の警官が、アメリカのMPと組んで運んでいたのです。MPのジープから見た占領下の東京―同乗警察官の観察記より

私は一般警備のほかに、しばしば特命で「カンボイ」の「エスコート」を命じられた。カンボイとは隊列を組んで移動する米軍部隊や輸送機のことで、エスコートとはそれらを先導、警備することである。(略)

 

朝鮮半島の戦闘が激しかったころは、立川空軍基地には朝鮮の第一線から負傷兵がぞくぞくと大量空輸され、彼らを米軍病院までエスコートする任務も増えた。兵士たちは戦場で応急手当てを受けてそのまま輸送機に乗せられたらしく、血のにじんだ包帯姿も多かった。とくに黒人兵が多かったように記憶する。たぶん黒人兵が多く前線に送られたからだろう。私たちはこうした負傷兵を乗せたバスを、当時築地明石町にあった第49陸軍総合病院(現 聖路加国際病院)まで先導した。

※偶然ですが、私は「聖路加病院」の近くで育ち、今は立川基地(昭和記念公園)の近くに住んでいます。

【参考画像】朝鮮戦争当時の写真。

f:id:NARASIGE:20200709095428j:plain

  【参考画像】TOKYO  ARMY HOSPITALに運び込まれる負傷者

f:id:NARASIGE:20200727135941j:plain

  【参考画像】負傷者を乗せた車を先導するパトカーと思われる写真。ガウン姿の入院患者たちが見えます。

f:id:NARASIGE:20210301175106j:plain

パトカーを拡大。「MILITARY POLICE」の文字。

f:id:NARASIGE:20210509193220p:plain

(2)朝鮮戦争時の聖路加病院を、内側から見た看護師

次に、「中央区女性史 聞き書き集」より、看護師さんの証言です。

昭和28年5月、わたしが来たときはアメリカ軍に接収されておりまして、都立整形外科病院、のちに築地産院になるところなんですが、そこをお借りして診療してました。総合病院でした。周りはまだ外人居留地の洋館がありましてね。ブラウン家っていうところが寄宿舎でした。

 

今の聖路加病院の場所は、アメリカが朝鮮戦争の負傷者を治療する陸軍病院して使っていたんです。外国の病院に興味がありますし、わたしは洗礼を受けていますから、パスポートを見せて教会に入れるんですね。すると、廊下には裸の兵隊さんがあふれていましたし、コーヒーの匂いはぷんぷんするし、お医者さんは車で乗りつけて、看護婦さんは白いキャップとユニフォームにケープを着てさっそうとしてましたね。

 裸の米兵があふれる聖路加を目撃したこの看護師さんは、その後もずっと聖路加病院で働いていて、なんとサリン事件(1995)の時もいらっしゃったとか。朝鮮戦争からサリン事件まで!歴史の生き証人ですね。


最後にオマケ。

(3)朝鮮戦争当時、立川基地付近で米兵相手に商売していたバーの店主

私が10年ほど前、立川で長年飲食店を営んできた当時80歳代男性(バー潮のマスター・通称ジミーさん)に、個人的にうかがった話です。

アメリカ兵は)ずっと戦地にやっておくと精神的におかしくなっちゃうんだよね。だから、交代で戦争に行ってました。行っているやつらと、日本の基地に待機しているやつらが順番になっていた。


(立川に)帰ってきたやつは、恐怖でボケて、精神的に変になっているのもいました。そういうのは「ああ、こいつボケてるな」と、見てすぐわかります。会計の時、日本人がごまかしても、気づかない。

 

戦地にいっている間の給料と危険手当がプールされているから、札束なんて財布に入りきらないくらい持っていました。札束をクリップで挟んでポケットに直接いれてた。


(戦争に)行くのが怖いので、ヤケっぱちになって金を使いまくってた。19歳20歳の、田舎から出てきたような奴らが、もう生きて帰ってこれないかもしれないので、酒を飲んで、気に入りのパンパン(※米兵相手の売春婦)に持っている金を全部やってしまう。金をもらったパンパンが、私の所に「ねえ、昨日、あたし、もらっちゃったよ」と言いにきました。 

 

立川は日本中から人が集まってきた。西部劇みたいだったんだから。その時に儲けた人達は、世の中が落ち着くと別の名前の会社になって、今はまったく関係ないような顔をしています。

 【参考画像】 立川の夜

f:id:NARASIGE:20100529112501j:plain

 「グランパ」が撮影した極東

以上、朝鮮戦争・聖路加病院・立川のエピソードでした。

ところでネットには、1950年代前半の日本を撮影したカラー写真がけっこう存在します。「グランパ」達が朝鮮戦争の頃に撮った写真を、子孫がアップしているらしい。当ブログではそのような経緯で撮られた写真を数多く紹介しています。日本人が決して注目しない切り口で撮った光景も多いので、ぜひあわせてご覧ください。

narasige.hatenablog.com

narasige.hatenablog.com

ヒリヒリする「ユーモア小説」

久しぶりに、獅子文六の「南の風」を読み返しました。

南の風 (朝日文庫)

南の風 (朝日文庫)

  • 作者:獅子文六
  • 発売日: 2018/06/07
  • メディア: 文庫
 

 「南の風」の裏表紙に「幻のユーモア小説」とありますが、これ、新型コロナの時代に読みかえすと、けっこうキツい。以前は、フンフン〜と読み飛ばせていた部分も、いちいちヒリヒリします。「南の風」は昭和16年5月〜11月に新聞連載された小説で、主人公が属する上流階級にも「時局の影響が現れだした」頃の話です。

弱者を征伐する男

具体的なヒリヒリ・ポイントは、「征伐」する男が出てくるところ。今でいう自粛警察ですね。彼は「今日も、1人征伐してきましたよ」と飲み屋で自慢するのです。「パーマネントの女がいたから、唾を吐きかけてやったとか、中学生が英語の本を読んでいたから叱ってやったとか」。しかし「彼が征伐するのは、いつも、女性や中学生で、屈強な男に対しては「糾弾の手が伸びないのであった」というのが、いかにもです。

 さらに、各種の「自粛」描写がヒリヒリする。恋愛の自粛とか、旅行の自粛とか。さらに物資(食料、ガソリン)の不足も加速しています。これも、平時に読むと、そんな時代もあったんだなあ‥‥で済むでしょうが、今は、いちいち、身につまされるんですよ。「南の風」は"実家が太い、ノンキな男が主人公"という設定ではカバーしきれない不穏さが漂うのです。

というか、獅子文六の小説では【主人公がノンキで実家が太い=現実世界がキツい】の公式が成り立つと思う。

「男は殿様の盾」

主人公が巻き込まれる怪しい宗教の発祥地カンボジアは「東亜共栄圏の重要な一角にある」という設定ですし、主人公の老母(鹿児島の士族出身)は、「男は殿様の盾。女はそれを殿様からお預かりしてる」「わが子を、自分の所有品とはおもわない」と静かに語っている点にも注目。

 朝日新聞は『南の風』連載にあたって「大東亜共栄圏の建設に邁進する国民の南方への熱情を昂揚すること必定」*1という広告を出しました。

なお、獅子文六自身は『南の風』について、戦後のエッセイ*2でこう書いています。

『南の風』というのも、少し便乗しちまったのは残念だが、デキとしては残念な作品とは思っていない。

“便乗しちまった”『南の風』連載終了直後、昭和16年12月に日米開戦。翌昭和17年7月から本名の岩田豊雄で小説『海軍』の新聞連載がスタートします。

narasige.hatenablog.com

 

 

 

 

*1:「南の風と文六さん」後醍院良正/『獅子文六全集付録月報No.4』昭和43年

*2:「私の代表作」/『遊べ遊べ』昭和32年(『獅子文六全集第14巻』収録)

馴染みのない美意識

昔の絵葉書を見ていたら、謎の賑やかさに出会いました。昭和3年(1928)に上野公園で行われた博覧会で、エネルギーが爆発している感じ、金をかけてる感じが伝わってきます。しかし、まあ、馴染みの薄いタイプの美意識です。「なぜか懐かしい」「どこか懐かしい」とか、あまり思えない。

(大礼記念国産振興東京博覧会)北海道館 | 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ

f:id:NARASIGE:20200510161834j:plain

↓塔の上の丸い造形物が、謎。

(大礼記念国産振興東京博覧会)正門より大礼記念館を望む | 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ

f:id:NARASIGE:20200510161801j:plain

 樺太館。プチ築地本願寺みたい。

(大礼記念国産振興東京博覧会)樺太館 | 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ

f:id:NARASIGE:20200510161917j:plain

すごく大きな建物。上野公園での博覧会が終わったら取り壊すだろうに、この大きさ。

(大礼記念国産振興東京博覧会)大礼記念館 | 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ

f:id:NARASIGE:20200510181449p:plain



この博覧会(昭和3年・1928)と同じ時期のデザインの本です。博覧会はこの仲間なのでしょうか?懐かしさを感じにくい美意識つながり。

From the Collection: The Complete Commercial Artist (現代商業美術全集) – Letterform Archive

f:id:NARASIGE:20200510162902p:plain

f:id:NARASIGE:20200510162827p:plain

 

ふと思ったのですが、昭和3年のこいういう美意識をザブンと浴びた子どもが、大人なってそれを映画化したことってあるのかしら。例えば「オースティン・パワーズ」のマイク・マイヤーズが「1967年」を30年後の1997年に再現したような…。

f:id:NARASIGE:20200510165149j:plain

 

narasige.hatenablog.com

 

かっこいい店と、現実と。

昭和4年(1929)頃のカッコいい商業美術の本です。

letterformarchive.org

 

↓左は真っ白な果物店。まるで現在のタカノフルーツパーラーや千疋屋みたいですね。今から90年前とは思えません。右はお洒落なスポーツ用品の店です。ショウウィンドウを覗き込む親子に注目。

f:id:NARASIGE:20200510080348p:plain

お母さんらしき人が着物ですね。この体温を感じさせる着物姿!!お太鼓の感じ!どっしりしたお尻!最高です!

f:id:NARASIGE:20200509202455p:plain

(参考画像、私の祖母です。大正元年生まれですが、165cm位で骨太体型。祖母がかがむとこのイラストに近い感じになったかもしれません。)

f:id:NARASIGE:20200509204251j:plain

 

 

↓右は洋服屋さんらしいです。ガラス張りの店に洋服姿の女性が見えます。しかし、これらは、あくまでも夢の世界だったことでしょう。

f:id:NARASIGE:20200510080428p:plain


 

では実際はどうだったのか?同時期に出たイラスト集を見てみましょう。「現代漫画大観」(昭和3年1928)には、洋装のモダンガールが奮闘している様子が、ドッサリ描かれています。だってライフスタイルも骨格も違う文化を取り入れるのですから大変ですよ!これは映画スターを手本に「おひつ」と「火鉢」の部屋で頑張るモダンガールの絵。

f:id:NARASIGE:20200509160703j:plain

 

こちらも別のモダンガール。タイトルは「彼女の家」。こってり濃厚な生活臭!

f:id:NARASIGE:20200509160612j:plain

屋根から、放尿させてる。オシッコは、モダンガールの後をつけて来た男に降りかかります。

f:id:NARASIGE:20200509160613j:plain

 

h3 { color: #FFFFFF; background: #000000; padding: 0.5em; } h4 { border-bottom: dashed 2px #000000; } h5 { border-bottom: double 5px #000000; }