佐藤いぬこのブログ

戦争まわりのアレコレを見やすく紹介

コバウおじさん(고바우영감 )

『マンガ韓国現代史―コバウおじさんの50年 (角川ソフィア文庫)』。韓国の4コマ漫画です。表紙は、2001年に発行された「ゴバウおじさん50周年記念の切手」だとか。

おじさんの服が1950年→2000年と、どんどん変化していますよね。最初の頃の装い(1950年前後)は、意外なほど多くの写真がネット(flickr)にあがっています。いくつかご紹介しましょう。

▽1950年代、韓国や日本を撮影したカラー写真が豊富な理由

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“Old Man and Bus, Daegu, 1952”

Old Man and Bus, Daegu, 1952  (corrected)

“Firewood”

Firewood

一連の写真は、朝鮮戦争の戦場写真とともにアップされていることが多い。“Evakuering med helikopter for 7 pasienter (1952)”

Evakuering med helikopter for 7 pasienter (1952)

“Old Scholar, 1952”

Old Scholar, 1952

“1952”

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“Nov48 - Seoul, Korea”

85 - Nov48 - Seoul, Korea

“Nov48 - Seoul, Korea”

83 - Nov48 - Seoul, Korea

洗濯するのは、女性

以上の写真を、父親の仕事の関係で少女時代を京城(現・ソウル)で過ごした方に見せたことがあります。すると「この服を白くしておくのは、女の人たちなんだから!川で洗濯して、布を棒でたたいて。たいへんよ〜ッ」。80年前の記憶をもとに、洗濯棒(?)の絵を描いてくれましたっけ…。棒の断面は三角形でした。

▽“Washing day,1952”

Washing day,1952

関東大震災とコバウおじさん

『マンガ韓国現代史―コバウおじさんの50年』の中は、こういう感じ。各ページの見開きには解説があり、このページではフランス文学者田辺貞之助の『女木川界隈』 が紹介されています。

『マンガ韓国現代史―コバウおじさんの50年』角川ソフィア文庫

【参考】ちょうど家に関東大震災を描いた漫画がありましたので、貼っておきますね。タイトルは「鮮人騒ぎ」。この漫画集『明治大正史(昭和3)』は、戦争や暗殺も茶化して描いているので、このページについても漂白・脱臭を差し引いて見なくてはいけませんが、参考まで。

『現代漫画大観 明治大正史』(昭和3)中央美術社/田口省吾画

………以上、コバウおじさんの簡単なご紹介でした。一見、絵がサラッとしているコバウおじさん。私には気付けない暗喩なども詰まっていることでしょう。歴史に詳しい方は、グっと高い解像度で読めるはず。ぜひ!

朝鮮戦争野戦病院画像

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ツルツルしたデパートの戦中戦後

銀座のApple Storeは、とてもツルツルしていますよね。Apple Store*1の向かいにあるデパートが松屋銀座Apple Storeに負けないほどツルツルで、まるでみつ豆の寒天のよう。(※サムネイル画像は2022/10/19撮影)

しかし、そんな松屋にも「ツルツルしていない時代」があったのです。今日はそれを紹介しましょう。

戦時中の松屋銀座

意外なようですが、日中戦争の頃の松屋銀座はツルツルしていませんでした。シャネルの広告の代わりにあったのは、「聖戦大勝」「 漢口陥落」などの垂れ幕です。(『痛恨の昭和』石川光陽より)

「漢口陥落祝賀の飾り」昭和13年(1938)

漢口陥落、武漢三鎮といって、まだ国外で戦争していたので、景気の良い話ばかりが耳に入ってくる頃でした。旗行列や、提灯行列が市内を練り歩き、花電車や、電飾の市電が走って賑やかでした。この調子で行けば、裏長屋にいたものが、表通りに出られるのではないかもしれないといったほどの勢いでした。銀座通りは写真のように飾り立ててお祭り気分で、私は日本も強くものなったものだと感心しておりました。

『痛恨の昭和』石川光陽 岩波書店

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敗戦後、日本人が入れない「松屋 PX」に

そして敗戦。三越は空襲で黒コゲになったけれど、松屋は接収されてPX(売店)になりました。

『銀座と戦争』(平和博物館を創る会・編)に加筆

▽PXになった松屋。この写真はものすごくキレイに撮ってあるので、一瞬「あれ?敗戦って、たいしたことなかったのかな?」と勘違いしてしまいそう。御用心、御用心![Matsuya Ginza branch of the Tokyo PX, 1952]

Matsuya Ginza branch of the Tokyo PX,  1952

写真家・師岡宏次の『銀座写真文化史』から、PXになった松屋について引用します。

焼失を免れた和光のビルや、松屋デパートの焼けたビルは進駐軍に接収され、急速に資材を集めて改装し、PXになった。PXというのは日本にきている進駐軍のために、必要な物資を売るところである。ここは厳重なチェックがあって、日本人は入れない。また、ここで進駐軍が買った物資を、日本人がたとえもらっても、もちろん買っても、とにかく持っていることで罪になった。

 しかし「日本人は入れない」はずの松屋にもヒミツの抜け道があったようです。三島由紀夫の『豊饒の海(三)暁の寺』に「松屋PX」が出てくるけれど、米兵を「情人」に持つ女性は堂々とPXに出入りしている。

松屋PXの中には、もちろん本多は入れない(略)。慶子は、紫いろのスーツの胸を張って進み出、顔も隠れるほどの大きな紙袋を両手に抱えたアメリカ兵を従えていた。 情人のジャックかと思われたが、そうではなかった。(略) それは1つの見ものであった。PXの前の群衆は、似顔絵描きをそっちのけにして、口をぽかんと開けてこれを眺めた。

▽引きで「松屋PX」見るとこんな感じ。1952年(昭和27)頃です。右側のすすけた建物は「三越」、画面手前には進駐軍用の標識が。ただよう敗戦国感。Tokyo Ginza, 1952 | Photographer: Captain John Randolph Coup… | Flickr

松屋の側面。「白いワンピース=清楚」のイメージをくつがえす女性が、靴をみがかせています[1951 Tokoyo, Japan]

1951 Tokoyo, Japan

上の写真を拡大してみると、日本人が入れない「P.X.レストラン」の看板

松屋銀座の角で交通整理[1951 Tokoyo, Japan]

1951 Tokoyo, Japan

接収解除後の松屋銀座

 進駐軍の接収解除後「PX」から戻った松屋は、公式サイトによれば1953年(昭和28)に新装開店しています。

▽ちょうどその時期を外国人がカラー撮影したのがコチラ。敗戦から8年ほどで、すでにツルツル。もはや戦中~敗戦の面影はありません。屋上の旗に【松屋のマーク(鶴と松)】が見えますね。[Department Store, Tokyo Japan, 1952-55]

Department Store, Tokyo

【参考】この時期、鮮明なカラー写真が存在する理由。

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▽そして1970年(昭和45)の松屋(右奥)。パッと見た感じ、今の銀座とほとんど変わらない。焼け野原から25年でこれって…。[Ginza, Tokyo – 1970]

Ginza, Tokyo – 1970

▽最後にもう1度、日中戦争の頃(1938年・昭和13)の松屋銀座を貼っておきましょう。「聖戦大勝」「 漢口陥落」。漢口は武漢です。

『痛恨の昭和』石川光陽 岩波書店


以上、松屋銀座の変遷でした。ご存じの方も多いと思いますが、松屋には浅草店があります。浅草店もけっこうツルツルだったけれど、現在はあえて昔の外観に戻してレトロを売りにしている。

銀座の松屋だって、皮の下には「過去」が残っているのかもしれません。しかし銀座店は、今後もツルツルのままでいくような気がします。

松屋銀座に限らず、目立つ場所にある建物は時代を反映しがちでした。有楽町の日劇(現在のマリオン)の変遷もぜひごらんください。

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*1:現在は銀座8丁目に移転

オシャレな椅子に“横向き”で座る人たち(『デスノート』・獅子文六『胡椒息子』)

今になって『デスノート(テレビ版)』を見ています。(脇役で、ひいきの俳優が出ていると聞いたもんですから)。「L」は、ソファに“横向き”で座る人なんですね。だるそうなのに、ツルン!と上手に座るからつい感心してしまう。

スポニチアネックス 2015年7月6日より

獅子文六『胡椒息子』と、オシャレ椅子

「L」の“横向き”座りを見て思い出したのは、昭和の人気作家・獅子文六の『胡椒息子』です。

昭和12年8月の連載第1回目では、主人公の姉である金持ち令嬢が、やっぱり横向きに座っているんですよ*1

オシャレな椅子に、横向きでダラっと座る令嬢。舶来のタバコを吸いながら…。しかもこの邸宅には美容院レベルの施設が備わっている。贅沢ですね。

実際、彼女はモダン都市を謳歌し、不良青年と遊びます。読者も、金持ち令嬢を擬似体験できるというわけ✨

▽横向きに座る令嬢。金属をつかったオシャレ家具ばかりの部屋。

『胡椒息子』挿絵(宮本三郎画)/「主婦之友」昭和12年8月号

オシャレな椅子と、昭和初期

『胡椒息子』の連載時(昭和12-13)、すでに金属を使った椅子があるのは意外な感じがするかもしれません。ただ、このテの椅子が誕生した時期は、日本では昭和初期頃に当たるんですって。

▽例:昭和13年、「豪華な近代設備を誇っている」九段坂のアパートです。

『ホームライフ』(大阪毎日新聞社昭和13年8月

▽先日見かけた武蔵野美術大学「みんなの椅子」展(2022・撮影可)。→武蔵美の解説ページ

1930年代から40年代にかけ建築の領域では、装飾や歴史性を廃し万国共通の様式や工法を是とする「国際様式」が勃興します。

『胡椒息子』から消えた令嬢と、日中戦争

さて。“オシャレ椅子に横向きで座る令嬢”に話を戻します。

『胡椒息子』の連載は1年間。序盤での令嬢は、浪費のかぎりを尽くしそうな勢いでした。もはや副主人公といっていいくらい目立っていた。しかし後半、彼女の姿がパッタリ見えなくなります。これは『胡椒息子』の連載開始と、日中戦争 のスタートがほぼ同時だったからではないでしょうか。

▽連載1回目の目次。華やか!

昭和12年「主婦之友」8月号

▽連載4回目の表紙。上の目次と、同じ年・同じ雑誌には思えません!!

昭和12年「主婦之友」11月号

『胡椒息子』の連載がはじまったのは昭和12年夏。この時点で日中戦争のドロ沼化を予想するのはムリ…。しかし時代はグイッと急変します。『胡椒息子』にも、“神社の夏祭りが支那事変の折柄」規模を小さくして行われる”という文が出てくるように。この状況じゃ、令嬢だけがいつまでも贅沢三昧しているわけにはいきませんわね。


「オシャレな椅子に、横向きに座っちゃう浪費キャラ」は、ちょっとだけ、照れくさい(笑)。でも、こういうキャラクターを描きにくくなる時代の再来は、カンベンしてほしいと思うのです。

 

▽日米開戦後に書かれた獅子文六『海軍』については、こちらを。

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*1:小説中には横向き座りの描写はないけれど「令嬢にあるまじき姿」となっています。「 ホーム・ドレスの裾から、高々と素足の膝を立てて、片手に歯型のついた板チョコを握り、もう一方の手で『ターキー』という雑誌を拡げ、令嬢にあるまじき姿勢を見せている。」

50年前(1972〜3年)の若者たち

 今日は1972-3年(昭和47-8)の日本の若者を紹介しましょう。ちょうど50年前なので、彼らは今、70歳代でしょうか。 その頃の若者ってセピア色じゃなくて、むしろ派手!(人や地域によるだろうけれど)。撮影はアメリカ人Nick DeWolf→☆氏です。

▽顔をカールでふちどる時代。

07-282

▽小悪魔

07-300

▽政治家になりそう

09-374

▽お大事に

09-257

▽2022年には見かけない鮮やかさ

08-547

▽制服でしょうか。華麗な髪型

17-547

伝言板が活躍。「先に行く」「ボアに居る」

08-427

▽清楚✨

09-235

山田裕貴さんに似ている…09-230

▽お花の髪飾り

09-262

▽ニットっぽい羽織

17-659

▽ホテルマ

17-630

▽美人と髪どめ

07-280

田中真紀子

08-163

▽靴ズレに注意(その1)

07-098

▽靴ズレに注意(その2)

07-320▽脱ぐのがたいへんそう

08-490

▽ギロッ

09-281

▽もてオーラ

17-816

タートルネックの王子様

08-542▽モデル?うしろに見えるのは「日劇」=のちの有楽町マリオン有楽町「日劇」の外観で見る昭和【戦争から「来夢来人」🎶まで】 - 佐藤いぬこのブログ

17-511▽おしゃれ親子17-742▽ピタピタ

17-507 ▽何かのショー

07-290 ▽アンニュイな2人

09-355▽アンアン創刊は1970

08-060▽若者を演じていませんか

09-300

▽長髪

08-454瀬川瑛子さん風

17-789

▽この時代の中年は戦場の経験あり…(同じくNick DeWolf氏が撮影)

08-224

以上、1972-3年の写真でした。

実はこの時期、敗戦の焼け野原からまだ20数年しかたっていません。楽しそうに見える若者たちですが、家にかえれば「アンタを育てるのに、どんだけ苦労したと思ってるのッ💢💢」的なはげしいお説経が待っていたのかもしれませんね。

(撮影者Nick DeWolf氏は、wikiによるとテラダイン社→□の創業者。現在は親族が写真をネットにあげているようです。アーカイブのインスタ→☆もあるので、フォローしてみてください)

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縮んだお菓子と、体操の写真

 「子供の頃好きだったお菓子が、すごく小さくなっている」という嘆きをSNSで見かけます。なにごとも、小さくなるのは悲しいですよね。

 今日は、戦時中にグラフ誌の写真が、小さく(安く)なった例を紹介しましょう。画像は、すべてお金持ち向け雑誌『ホームライフ』からです。

戦争前の優美な体操写真

 まずは、日中戦争がはじまる前の優雅な写真を。

今も昔も、体操写真は「運動・健康」を隠れミノにして若い肉体を凝視できるものですが、上品さが売りだった雑誌『ホームライフ』も体操ページをしのばせていました。

▽こちらは昭和10年。知識階級のお嬢様が、デンマーク体操をしています。 お天道様の下で令嬢の脚を拝めるのは、体操のおかげといえましょう。彼女達は「母校 自由学園」で体操を教える予定とのこと。

『ホームライフ』大阪毎日新聞 昭和10年12月

▽こちらは“実業家の令嬢が自宅で体操している”設定の写真。いや、設定じゃなくて、本当に自宅で体操しているのかもしれないけれど…。

人生が明るく、いつも春のように…たまらなく嬉しい微笑がたえず口もとにほころんでいる、なんのクッタクもなくのびのびと成長して行く娘ざかり

『ホームライフ』大阪毎日新聞 昭和11年4月

▽宝塚のみなさん。特集のタイトルは「明朗・自由な健康美の検討」と、一見真面目ふう。薄着の写真には、いちいち医者や大学教授の文章(日本女性の体格の変化について一緒に考えようではないか、的な)が添えられています。これなら読者は安心して「健康美の検討」(笑)ができますね。

『ホームライフ』大阪毎日新聞 昭和11年8月

▽そして、日中戦争直前の昭和12年7月号。松竹少女歌劇「男装ティーム」の訓練風景です。軍国的訓練のテイで、めったにみられない角度から少女たちを拝めます。「男もかなはぬ大柄な少女たち」とは対照的に、指導する「在郷軍人さん」は(あえてなのか)小さい。

『ホームライフ』大阪毎日新聞 昭和12年7月

戦中の体操写真

 以上、令嬢や、宝塚、松竹少女歌劇の画像をご覧いただきました。しかし日中戦争が始まると、豪華だった『ホームライフ』の誌面が急に安っぽくなる。そしてその影響は体操のページにも及びます。

▽こちらは昭和13年「ある舞踏研究所に集った娘たち」の体操で、お茶を濁している例。「ある舞踏研究所」って、何ですか…?お菓子が、いつのまにか小さくなっていた”感がすごい!(もっとも、“令嬢や宝塚の体操より、無名ダンサーのエロス歓迎”の読者も多そう)。

『ホームライフ』(大阪毎日新聞昭和13年4月号

 この時期の編集後記には、誌面が寂しくなった理由として、“カメラマンが戦場に出払ってしまったから。最近は上流階級に取材を断られるから。”みたいな言い訳が書かれていました。

▽ちなみに、雑誌『ホームライフ』自体もサイズが縮んだあげく、廃刊になっています。ああ。(表紙は、【左】昭和14・東郷青児 【右】昭和16・小磯良平

それにつけても、2022年の日本は不安がいっぱい…。「お菓子」その他がこれ以上、縮みませんように!

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生き延びるための灸

お灸でメンテナンス(ほっこり編)

私がセルフ灸をするときは、関節に油をさすつもりでやっています。ブリキのロボットが自分自身を整備している感じです。

「人生50年」の時代ならともかく、関節の耐用年数を過ぎても生きていくからには、メンテしておいて損はない。関節の周りには(うまい具合に)重要なツボが集まっているし、一石二鳥!

 

ひと昔前(私が鍼灸の国家資格をとった頃・笑)は、お灸はお年寄りのもの…というイメージがまだ残っていたけれども、今は「ととのえ」「リラックス」「スローライフ」のカテゴリーに入っているようですね。インスタの#moxa(もぐさ=moxa)を見れば、“アジアの知恵で、ほっこり未病治✨”みたいな画像がいっぱい出てくるし。

 

▽🎵わたしは、夢みる、経穴人形🎵。灸はお茶の缶に入れておけば、湿気知らず。

お灸でメンテナンス(命がけ編)

近年「リラックス」「スローライフ」の雰囲気をまとうことに成功したお灸ですが、かつては極限状態を想定していたケースもありました。

たとえば、茨城にあった「満蒙開拓少年義勇軍」の訓練所では、少年たちが“満州に渡る前”にお灸の知識を教えていたのです。病院もない過酷なエリアに行くのだから、せめてお灸で健康管理してみてね、という感じだったらしい。(PDF 満蒙開拓少年義勇軍 内原訓練所の灸療所「一気寮」に関する調査報告

 

また、敗戦目前の婦人雑誌には、“生き延びるための灸”みたいな記事をちょいちょい見かけます。“医者もクスリも不足しているから、とにかくお灸で生き延びましょう”といった調子なんです。

胃腸さえ丈夫ならばたいていの病気を押し切ってゆけるものですが、近頃は医者や薬の不足に加えて衣食住の不如意から来る心身の疲れ、不衛生、不消化などを原因して、胃腸病患者が続出しております。胃腸病は特に灸の効き目が顕著ですから、重くならないうちに根気よく灸を据えてください。(昭和20年8月『主婦の友』)

「衣食住の不如意から来る心身の疲れ」なんてサラッと書いてあるけれど、よく考えてみれば昭和20年8月の記事。もはや「衣食住の不如意」どころか、絶体絶命の読者も多かったのでは…。

2022年8月の私たち

NHK 新型コロナウィルス データで見る感染状況 2022/08/10

今、戦時中の灸のあれこれを読んでいると「まア!昔って大変ねえ。医者やクスリが不足して、灸に頼るしかないなんて…」と、ヒトゴトにしたくなります。しかし、考えてみりゃ2022年8月も、なかなか悲惨な状況ですよ。(参考 新型コロナウイルス 日本国内の感染者数・死者数・重症者数データ|NHK特設サイト

いつしか「ほっこりのお灸」から「命がけのお灸」にフェーズが変わってきているのでしょうか。

 

▽ 私はブログで、できるだけ鮮明な画像をのせるように心がけています。が、敗戦間近の雑誌は紙質が悪すぎてムリ!

昭和20年7月『主婦の友

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日比谷公園で国葬をしていた時代

日比谷公園国葬風景(東郷平八郎)【昭和9年6月】

いきなり国葬が決まって、モヤモヤしています。

先日、日比谷公園国葬東郷平八郎)記事を読めるサイトを見つけたので、参考までにご紹介しますね。日比谷公園といえば、野音オクトーバーフェスト、鶴の噴水…みたいなイメージですが、かつては国葬が行われる場所でもありました。

▽これがそのサイト。雑誌をパラパラする感覚で読めます。昭和9年7月の東郷平八郎追悼特集国葬の記事だけではなく、亡くなる前の見舞客の写真などもビッシリですよ。(雑誌名に一瞬驚くけれど、今、世間で話題になっているのは「日報」。この雑誌は「画報」)

archive.org

日比谷公園葬儀場

▽上記の雑誌より引用してみましょう。こちら昭和9年6月5日の日比谷公園。それこそ、オクトーバーフェストをやっているような場所に、一般人が詰めかけている。

https://archive.org/details/sekai-gaho-1934.7/page/n28/mode/2up

午前九時四十分霊柩車は日比谷公園葬儀場に入った。(略)午後零時半から一般の拝礼が許された。朝早くから日比谷公園の周囲に詰めかけていた大群衆は、怒涛のように正門に殺到して、我れ勝ちに故元帥の霊前に額こうと凄まじい勢いでなだれ込んだ。

NHKの動画にも、同じ角度の映像あり。

www2.nhk.or.jp

▽記事のタイトル。「護国の大偉人、われらが東郷元帥」といった感じ。

国葬のあとは、日比谷公園から多磨墓地へ移動。(余談ですが当時の“多磨墓地”は、公園墓地という斬新なスタイルゆえ敬遠されていました。しかし、東郷平八郎以降はグッと知名度があがったとか。*1

https://archive.org/details/sekai-gaho-1934.7/page/n30/mode/2up

【参考:東郷平八郎イメージ画像】これは、『明治大正史 現代漫画大観(昭和3)』に出ていた東郷平八郎日露戦争の図(画:池田永治)。冒頭のアイキャッチに使った似顔絵(画:近藤浩一路)も同じ本から拝借しました。

『明治大正史 現代漫画大観』昭和3年

若者の「海軍葬」も日比谷公園で【昭和17年4月】

東郷平八郎リスペクトといえば、昭和の人気作家・獅子文六の『海軍』です。主人公は、東郷平八郎を“同郷(鹿児島)の英雄”として憧れる若者。『海軍』のモデルは真珠湾攻撃の軍神の1人で、日米開戦の翌年に朝日新聞に連載されました。

そんな主人公の「海軍葬」も、やはり日比谷公園で行われています。物語のクライマックスがこの海軍葬なので、葬儀の様子も詳しく描かれている。興味のある方は小説『海軍』を読んでみてくださいね。

▽これは実際の海軍葬記事

『写真週報』昭和17年4月22日号

『写真週報』昭和17年4月22日号

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以上、日比谷公園で行われた葬儀の例でした。九軍神の海軍葬から1年後の昭和18年山本五十六国葬日比谷公園で行われています。→NHKの動画に葬儀の様子有

そして、山本五十六の墓と東郷平八郎の墓は、どちらも東京市が造った多磨墓地のド真ん中、「名誉霊域」にあったりする。広〜い名誉霊域を使っているのは、たった3人の軍人だけ。(東郷平八郎山本五十六・古賀峯一*2

そういう感じなんです、国葬の時代って…。

▽多摩墓地(現・多摩霊園)内名誉霊域

昭和12年3月「公園緑地」庭園式墓地の再検討/『都市と緑』井下清著より

▽現在も、名誉霊域はそのままです(2022年撮影)。

president.jp

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*1:昭和12年3月「公園緑地」庭園式墓地の再検討/『都市と緑(井下清著』より引用「この新型墓地に対し、毀誉褒貶相半ばするというよりは、当局の非常識に呆れたという風な観方が相当にあった。(略)東郷元帥の国葬を迎うるに至っては、静寂なる郊外の霊域は日々幾千幾万参拝者を大型バスにて輸送されるに至って、神聖な霊域も紅塵万丈をあぐる如きこととなり、市内街路の如き管理を必要とするに至ったほどであって、その結果は全国的に多磨公園墓地の声価を高め、従って各地方において之が建設を企図するに至ったことは、認識の反映と言わなければならぬ。」

*2:古賀峯一は国葬ではありません

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