佐藤いぬこのブログ

戦争まわりのアレコレを見やすく紹介

1950年代のスーベニアショップ

スーベニアショップいろいろ

2021年7月末の日本は、酷暑と感染拡大で「おもてなし」どころじゃないけれど、70年ほど前の日本は、ある種の“おもてなし”モードにありました。したがってスーベニアショップも多かった。今日はそれをざっとご紹介しますね。

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▽1956年、小さい三脚がズラリ。右の人、ヒャダインさんっぽい?

Souvenir Shop, 1956▽1951 小倉。小倉玉屋 - Wikipediaには、“占領軍専用の国内輸出業「エクスポートバザー」を新設した”とあります。

1951

▽右端に小倉「エクスポートバザー」の看板が見えます。

"Main Street" Japan 1952

▽1956年。“Ginzakan Mart”。一見普通の店ですが、看板にスーベニアの文字と、日本モチーフ(鳥居、家紋、三味線など)が。

Ginzakan Mart-Souvenirs

▽上の“Ginzakan Mart”を引きで見たところ。Ginzakan Mart, Tokyo 1952-'53

Ginzakan Mart, Tokyo  1952-'53

 ▽1954年、ピカピカのガウン

2017-01-09-0008▽1949-1951 狭いスペースに効率よく並べている。下段には首飾りも。https://www.flickr.com/photos/58451159@N00/17115334411

f:id:NARASIGE:20210731074754j:plain▽1950年東京。商品を道に直接、置いてる。

Tokyo, 1950▽1954年。写真の現像(DPE)と、みやげ用の派手な服。外に出された空っぽのショーケースに「中村製靴」とあります。かつては靴屋

2018-10-04-0002

  ▽1952年東京。「今すぐ、あなたの家にクリスマスプレゼントを送りましょう」の看板。ゴチャっとした写真なのでターゲットに矢印をつけました。

https://www.flickr.com/photos/53149321@N06/4905812064

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▽1952年佐世保。わかりにくいけれど、右の方の看板は、英語と日本語が同じくらいあります。商店街の突き当たりにはキャバレーに誘う看板。

Sasebo, Japan 1952

▽上の佐世保写真を拡大したところ。英語が多い。

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量産型の怪しい絵

▽1953年横須賀。虎だの、キリストだの、美人画だの。

Sailor shopping, Robber's Alley, Yokosuka, Dec. 1953江田島広島県)でしょうか。貼られている板が、襖っぽい。

https://www.flickr.com/photos/58451159@N00/30116120681

f:id:NARASIGE:20210731082956j:plain▽ 1949-51「スーベニア アートワーク」(Souvenir artwork, Japan)。全国の「軍都」に出荷していそう。

Souvenir artwork, Japan 1949-51

建物ごとスーベニア

▽東洋を演じているガソリンスタンド。1955-57頃。

Gas station

拡大したところ。モービルガス。

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▽1952-55。考えてみれば、戦前に作られた観光ホテルもスーベニア感が…(これは富士ビューホテル。)https://www.flickr.com/photos/58451159@N00/25740583680

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以上、お土産、スーベニアショップ関連の画像でした。

スーベニアショップといえば、獅子文六の小説『やっさもっさ』では、 進駐軍向けの「享楽施設」(キャバレー・ダンスホール)を手広くやっている会社が、スーベニアショップも経営している設定です。そこの社長は横浜の高額納税者(笑)。『やっさもっさ』は、各種の「お・も・て・な・し」事情がうかがえるので、ぜひ読んでみてください。

▽焼け野原の日本と、“パラレルワールド”のアメリ

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1950年代の浴衣

1950年代の浴衣

ネットには、戦後間もない日本を撮影したカラー写真があがっています。当然、着物姿の女性も写っているけれど、これが意外とお手本にならない!長いこと戦争に耐えてきたせいかオシャレが迷走しがちだから。

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 その点、浴衣は紺白でスッキリ!参考になりそうなのでご紹介しますね。(※すべて元からカラー写真。暗い写真は明るさを調整しています)

▽1951-53(昭和26-28)頃多分、母と娘。若い娘の華やぎが漂ってきます。お母さんの雰囲気も素敵。https://www.flickr.com/photos/58451159@N00/23635057973

f:id:NARASIGE:20210724111051j:plain上の写真を引いたところ。 よく見ると、各世代の女性が1枚の写真に収まっています。手前の年配女性は、浴衣と体が一体化している。

f:id:NARASIGE:20210724111022j:plain▽1953-55頃(昭和28-30)。屋形船で花火待ちの人々。密です!https://www.flickr.com/photos/58451159@N00/31255954433/

Moms and kids

1950年代前半ならではの写真

▽ 1953-1954(昭和28-29)頃。やんちゃな雰囲気の女性。華奢な金色の腕時計をしています。

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上の彼女が洋服を着たところ。当時の日本では珍しい、凝った作りのドレスです。

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▽凝ったドレスの理由はこの人。戸の模様から、上の彼女と同じくらいの背丈だとわかります。

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▽1953-1954頃(昭和28-29)。小柄ゆえ浴衣がツンツルテンにならない。これも1950年代の浴衣姿の一例。

2019-08-21-0012▽1950年代の時代背景はこちらを。当サイトで最もアクセス数が多かった記事です。

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接客業の浴衣

外国人が撮影しやすいのは、やはり接客業の女性です。こちらは1955年(昭和30)、敗戦から10年たった頃の大阪。背景に仲居さん募集の貼り紙が。(もしかするとこの外国の女性は、日本の夏にあわせて紺白ワンピースを着ているのかもしれません。他の写真は原色なので。

Shinsaibashi 2

▽1955年(昭和30)、大阪のバー。上の写真と同じ外国の女性中心に。左端の人も浴衣か。https://www.flickr.com/photos/herb450/4139091376/

f:id:NARASIGE:20210724113154j:plain▽ 1959年(昭和34)の涼しげな仲居さん。1950年代前半はキツいパーマの女性が被写体になりがちでした。しかし、こういう落ち着いた写真を見ると「ああ!もうすぐ1960年代に入るんだ…敗戦から15年経過したんだなあ」と、しみじみします。https://www.flickr.com/photos/herb450/4613691578

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▽参考:浴衣じゃないけど、ヘアメイクがきつい例(1950-55頃)

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オマケ。猛暑とマスオさん

1953年(昭和28)頃。21世紀はもっと暑くなるよ、マスオさん。

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出典:サザエさん(文庫11巻)朝日新聞社

以上、1950年代の浴衣姿でした。前に大正生まれの女性から

戦後しばらくの間、浴衣は、もう色が落ちて、色が落ちて、白い帯が出来なかった。帯が青く染まってしまうから。

と聞いたことがあります。

また、1950年4月(昭和25)の『装苑』でも、座談会の話題が「純綿を探すのがたいへん」「質のよい木綿があれば、毎日ブラウスを洗濯できるのに。洗濯するとダメになってしまう」みたいな調子でした。(デザイン以前にそこですか、『装苑』なのに!)

現在「木綿の浴衣」は、気軽なオシャレといったイメージだけど、それすら難しい時代があったことを頭のスミに置いておきたいですね…

▽1945年の日本。背景の樹木が、マッドマックス怒りのデス・ロード。

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マッカーサーが見た焼け跡』1983年(文藝春秋

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シティポップと焼け野原(その1)

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「ものすごく強い西洋への憧れ 」とシティポップ

kompass.cinra.net

「シティポップ」が海外で注目される現象について、マトを得ていると評判の記事を読みました。私は音楽に詳しくないけれど、とても腑に落ちた部分があったので引用します。

松永:あの当時の作り手が持っていた「ものすごく強い西洋への憧れ」が玉手箱のなかで保存されたままになっていて、その輝きだけが現代にビカビカっと届いてる。時間も場所も離れたところにいるリスナーにはその強さが不思議だし魅力的に見えるんでしょうね。

 なるほど。シティポップは「ものすごく強い西洋への憧れ」が詰まったタイムカプセルなんですね。開けられる予定のなかったカプセルが異国で開封され、中から光があふれている感じ?かぐや姫の竹みたいに…?

シティポップと敗戦

そういやシティポップが誕生した1970後半~80年代は、意外と“焼け野原”に近いんです。たとえば今年(2021)は大滝詠一のアルバム『A LONG VACATION』発売40周年記念ですけれど「2021年→1981年」の40年間よりも、「1981年→敗戦」の方が短い。

▽大まかな図作ってみました。

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参考画像:焼け野原の東京

▽1945年の新宿伊勢丹。36年後の1981年、大滝詠一君は天然色」。

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マッカーサーが見た焼け跡』(文藝春秋1983年)に加筆

▽1945年の新宿。34年後の1979年、松原みき「真夜中のドア」。

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マッカーサーが見た焼け跡』(文藝春秋1983年)に加筆

▽1945年の通勤通学。みんな下駄。28年後の1973年、ユーミンの「ベルベット・イースター」には「むかしママが好きだったブーツはいていこう」という歌詞があるけれど、無理。

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マッカーサーが見た焼け跡』(文藝春秋1983年)

▽1945年、屋根のない東京駅。鉄骨見えてます。35年後の1980年に山下達郎RIDE ON TIME」。

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マッカーサーが見た焼け跡』(文藝春秋1983年)に加筆

▽1945年、謎の笑顔。背景の樹木も焼け焦げていて、「マッドマックス 怒りのデス・ロード」に出てくる木のようです。

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マッカーサーが見た焼け跡』(文藝春秋1983年)

 一方、終戦の年のアメリカは…

さて、日本が焼け野原になっている頃、アメリカはどうだったのでしょうか。雑誌「LIFE」のバックナンバーを検索をしてみれば、1945年(昭和20)の広告がキラッキラ。想像はしていたけど、ここまでとは!日本にとっては敗戦の年でも、アメリカの広告は通常運転なんですね。以下、「LIFE」1945年9月17日の画像をあげていきます。

▽「もんぺ」の無い国

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LIFE 1945年9月17日

▽食べ物の詰まった冷蔵庫

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LIFE 1945年9月17日

▽原爆記事の次のページには、タバコの美女…

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LIFE 1945年9月17日

▽上の広告と同じ号の日本の降伏。「JAPAN SIGNS THE SURRENDER」

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LIFE 1945年9月17日

以上、LIFE 1945年9月17日号からの引用でした。 もちろん広告=アメリカの現実ではないでしょうけれど、 それにしても日米の差がすごい。別の星。パラレルワールド。そりゃ「ものすごく強い西洋への憧れ」が生まれますわね。

 

 「ランド」を作るミュージシャン、作らないミュージシャン

シティポップが生まれた時代は、“敗戦の残り香”がプンプンしている時代でもありました。

私は、芸人・マキタスポーツが、10年ほど前のポッドキャスト言ってた「最近のミュージシャンは『ランド』を作らない」という説が忘れられません。

最近のミュージシャンは「ランド」を作らない等身大の自分を歌う。自分は「元春ランド」に憧れて上京したけど、実際の東京との違いにガッカリした。

と、だいたいこんな感じの説でしたが、思えば 昭和の人気者は「ランド」作りの名人がそろっていました。「ユーミン・ランド」「わたせせいぞうランド」「やれやれランド」「元春ランド」など。

シティポップもそういった「ランド」の一種。今後、シティポップを聴いた未来人が、「おお、こんなに豊かでアーバンな時代があったなんて!」と、真に受けすぎませんように。


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▽「おんぶ」とシティポップ

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「大家さん」と伊勢丹(漫画『大家さんと僕』を読んで・その2)

漫画『大家さんと僕』(矢部太郎)を愛読しています。『大家さんと僕』で重要な位置を占めているのが新宿伊勢丹。読むたびに“「大家さんと伊勢丹は、ともに戦前〜戦後をかけぬけてきたのだなあ”と思うのです。

大家さんと僕 これから

とくに印象的なのは伊勢丹の3階から上はアメリカだった”というところ。

伊勢丹は戦後すぐは3階から上はGHQの事務所があってアメリカだったんですよ」

大家さんが見た伊勢丹はどんな感じだったのでしょうか?ヒントとなるカラー写真があったので、ご紹介しますね。

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出典:『大家さんと僕』矢部太郎(新潮社)

1952年の伊勢丹(漫画『大家さんと僕』を読んで)

“3階から上はアメリカ”。そんな時代(1952年・昭和27)に撮影された伊勢丹です。(伊勢丹の接収解除は翌1953年)

▽左が伊勢丹エルメスの売り場あたりか)。ISETANと書かれたプレートが2箇所に。奥は花園神社の方向でしょう。バッと見た感じ、ほほえましい光景です。でも拡大してみると…。“passing Isetan Department Store, Tokyo, Japan, circa 1952”

Japanese school girls

▽拡大すると見えてくる標識。「軍」の文字が見切れています。「(伊)2階売場 御入口」の看板も。仮設の入り口??

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▽上と同じ人が撮影したと思われる写真。こちらも1952年(昭和27)。キャプションに「伊勢丹裏のモータープール」とあります。「えっ?」となりますが、背景に見える3連の窓は、たしかに伊勢丹。“motor pool behind Isetan Department Store, Tokyo, Japan, circa 1952”

My father circa 1952

▽右が伊勢丹。こちらも、よく見るとジープが走っている。“In front of Isetan Department Store Tokyo, Japan, circa 1952”

https://www.flickr.com/photos/53149321@N06/4905662529/

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 上の写真の現在。(撮影:佐藤いぬこ。向きが違ったらごめんなさい)

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伊勢丹の屋上から撮った写真。“May Day Parade passes Isetan Department Store 1952”

May Day Parade passes Isetan Department Store

一連の写真が撮られた1952年(昭和27)は、ちょうど朝鮮戦争の時期にあたります。 

▽関連話題:銀座にたたずむ女子は、野戦病院のドクターだった…

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伊勢丹を遠くから見ると…

以上、1952年(昭和27)の伊勢丹写真でした。いかがでしたか?意外に今と変わらない部分もありますよね。

しかし伊勢丹に限らず、空襲を受けなかったクラシックな建物には御用心!優美な外観にだまされて「あれ?戦争って、大した事なかったのかなあ?」と錯覚しそうになるから。敗戦直後の新宿を引きで見るとこんな感じなんです。新宿が平らですよ…(『マッカーサーが見た焼け跡』文藝春秋

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マッカーサーが見た焼け跡』(文藝春秋)に加筆

拡大図。大家さんがいう「この辺りも空襲で何もなくなって」は、本当だった…

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マッカーサーが見た焼け跡』(文藝春秋)に加筆

▽敗戦間もない頃、まだ14才の堀内誠一伊勢丹宣伝課に入社しました。大家さんとすれ違っていたかもしれません。

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伊勢丹を軸に時代がめぐる

5歳の頃にオープンして 17歳の終戦GHQに接収されて 25歳で戻ったの(『大家さんと僕 それから』)

『大家さんと僕』では、伊勢丹が時の流れの“イカリ”になっています。ヤミ市の回想シーンにも、遠くに伊勢丹が描かれているし…。

世代の違う「大家さん」と作者の「矢部さん」をつないだ伊勢丹。どんどん建物が消えていく日本で、貴重な存在です。ありがとう、サンクスエックス!

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バナーと戦争

みなさん、「バナー」というと何を思い浮かべますか?私は、オンラインショップの“小さい長方形”を連想します。あと、オリンピックの旗も「バナー」として売られていますね(笑)

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※画像は2021.10.13時点。tokyo2020shop.jp

「祝出征」のノボリはバナー?

先日、「祝入営」のノボリを“バナー”「Japanese "Going to War" banner」としている画像を見かけました。正式な呼び方かどうかわからないけれど…。おお、こういう形状はバナーの仲間なのか、と認識をあらためました。今日はそんな出征のノボリ(幟)にまつわる画像をご紹介しましょう。

▽まず昭和13年のマンガ。背景に注目してください。「祝出征 楠凸太君」。小さい子の兄が出征したのです。

昭和13年2月「日の出」新潮社

▽写真だとこんな感じ。“祝入営 坂井忠義君”「出征の朝、自宅前で。昭和15年11月27日」

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『昭和の戦争記録』岩波書店

▽銀座の大通りにはためく、祝出征のノボリ旗(土門拳昭和12年11月)。写真左の看板「ネクタイとワイシャツの店 モトキ」が今もある銀座モトキでしょうか。

『銀座と戦争』(平和博物館を創る会・編)

▽このお宅は盛大に見送ったものの、送られた本人は「極度の近視で帰された」そうです。そんなことってある?

「出征」

写真は、赤坂檜町の平山さんの出征の様子を撮ったもので、昭和12年(1937)ですから、隣組や親戚、知人が集まって盛大に送りました。 (略)敗戦後になってみると、あの時帰されてよかったね、そのまま南方にでも行ったら、生きて帰れたかどうかわからなかったと話したものでした。

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『痛恨の昭和』石川光陽/岩波書店

旗屋さん大忙し

こちらは昭和12年夏の「事変」後は、旗屋の生産が追いつかないという記事です。「出征旗」や「紙旗」が値上がりし、「暴利取締令」にふれる業者もあったとか。

事変とともに目のまわるほど忙しくなったものの一つに旗屋がある。(略)何しろ、提灯屋、葬式屋、装飾屋、手拭屋などが一斉に臨時旗屋に転業してしかも需要を満たせないというから凄まじい限りではある。

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「ホームライフ」(大阪毎日新聞社昭和12年11月号

▽出征のノボリを拡大。当たり前だけど、まだ名前の部分は空白なんですね。

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「ホームライフ」(大阪毎日新聞社昭和12年11月号

▽同じ頃、提灯屋さんも大忙しでした。

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「祝出征」→「英霊の家」へ

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『散歩が仕事』(早川良一郎)は、 カワイイ表紙とうらはらに、戦争の回想が多いエッセイ集。「祝出征」ノボリのエピソードもあったので引用します。舞台は池袋のタバコ屋、店主はとっても感じの悪い「鬼婆」です。

ある朝、鬼婆の店にノボリが出ていた。「祝出征」という召集があった家に立てるノボリであった。そういえば店の奥に若い男がいたのを見たことがあるような気もした。親ひとり子ひとりなのだろう。鬼婆も寂しいことだろう、そんなことを考えた。

その日の帰りに鬼婆の店をのぞいたら、中に大勢いて、酒を飲みながら軍歌を歌っていた。

戦争下の日々が続いて、空襲があったりした。鬼婆の家も私の家も焼けなかったので、相変わらず私は裏通りを通って通勤していた。たまに鬼婆が閉めた店の前で道を掃いたりしているのを見かけた。

そのような毎日が続いていたけれど、ある帰りのとき、鬼婆の店が葬式の幕に覆われていたので、どきっとした。「英霊の家」と木の札が読めた。戦争が負けて終わった。(『散歩が仕事』早川良一郎/文春文庫 )

「祝出征」のノボリから→「英霊の家」の木の札へ。死を境に、バナー(?)が変わる…。著者は、苦手な「鬼婆」とわざわざ話さなくても、バナーを見れば家の事情をうかがえるんですね。(このあと「戦死の公報の間違い」で、鬼婆の息子は帰ってきます。鬼婆、大喜び!よかったよかった。)

旗の再利用

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昭和13年2月「日の出」新潮社

余談ですが、「祝出征」の旗を再利用する記事があったのでご紹介します。

「後で利用できる歓送旗の色抜き法」

不用になった「祝出征」などの歓送旗は、次のような方法で色を抜けば、何にでも利用出来ます。木綿の旗ならば、水でドロドロに溶いた糠(ぬか)の中に、一晩くらいつけ込み、引き上げてから石鹸をつけ、棒のようなものでたたきつけるか、もし非常に大きい旗ならばタタキの上などで踏み出します。 (昭和13年2月「日の出」新潮社)

 色を抜くために、棒で叩いたり踏んづけたり。 当時の洗濯法としては、普通だったのかもしれませんが「え?そんなラフに扱っていいんだ?」と、ビックリしました。大切にタンスの奥にしまうイメージだったので!


以上、出征のノボリ(バナー?)にまつわるお話でした。そういえば、今回「バナー」で検索していたらこんなBBCの記事を見つけました。映画撮影で「バナー」を使ったら、住民に緊張がはしったらしい。バナーの力…。

www.bbc.com

最後に、冒頭の漫画をもう1回貼っておきましょう。出征した「兄イちゃん」はどうなったのか?数年後、この子達はどうなるのか?昭和13年の漫画なので、子供たちの服装がまだファンシーなのもツライのです。

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新潮社「日の出」昭和13年2月号 寺尾よしたか

 

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宝塚と風船爆弾

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宝塚劇場の“向かい”が気になる

日比谷のMUJIカフェ(追記:2021年10月閉店)が好きです。向かいに宝塚劇場が見えるから…。私は宝塚にほとんど縁がないけれど、漫画『ZUCCA×ZUCA』を読んでファンの熱量をうらやましく思っておりました。

 

さて、宝塚劇場は進駐軍に接収され、戦後10年ほどは「アーニー・パイル・シアター (Ernie Pyle Theatre) 」でした。当時の写真を見ている時、いつも気になる部分があったんですよ。「MUJIカフェ」のあるエリアが、妙に[仮設]っぽいのです。ちなみにこの写真の左側は帝国ホテル。都会の一等地で、この仮設感。一体どういうこと?

1951 Tokoyo, Japan | jcator | Flickr

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もう少し前にさかのぼると、さらに仮設度が高い。思いきりカマボコ兵舎です。

FH000029-090104-22 | discovery2009 | Flickr

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宝塚劇場と、風船爆弾

MUJIカフェのあたりは、いったい何だったんだ…?」

ぼんやり思いながら、数年が経過。そして先日、ようやく謎が解けました。そのエリアは超高級な中華の老舗「山水楼」だったのです。「山水楼」について、宝塚劇場で風船爆弾を作っていた女学生の回想を引用します。

「学徒動員で風船爆弾作り」昭和の戦争記録』岩波書店

昭和18年(1943)から20年3月までは学徒動員で、日比谷の宝塚劇場で風船爆弾の和紙の糊付け作業をやらされました。宝塚劇場は4階まで椅子を取り払い、すべて作業場にしました。朝8時から夜8時まで国家秘密だと言って憲兵が見張っていて、 何も話してはいけないと言われました。女の子なのにもんぺにゲートルを巻いて作業していました*1

昭和20年1月の空襲で、宝塚の向かいにある山水楼に爆弾が落ち、会合を開いていた軍部の高官の方が多数死んだということでした。 そのとき私たちは、仕事が遅れるからと憲兵が地下におろしてくれなかったので、階段の下に隠れているとガラスが降ってきました。 (横倉喜久代 昭和3年1928年生まれ)

危険な時に「仕事が遅れるからと憲兵が地下におろしてくれなかった」って、ひどい!!上記の文章に添えられていた写真を拡大すると、宝塚劇場の窓ガラスもかなり割れていることがわかります。

宝塚劇場の向かいにあった山水楼に爆弾が落ちて炎上中。昭和20年(1945)1月27日/石川光陽撮影

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『昭和の戦争記録』(岩波書店)に加筆

(炎上する山水楼を撮影したのは石川光陽。彼の写真集・痛恨の昭和 も機会があったらぜひごらんください。)

要人が集う中華の老舗「山水楼」

 続いて三つの祖国―満州に嫁いだ日系アメリカ人 (中公文庫)にも、「山水楼」が出ているのを発見しました。(いままで私は、日比谷公園内の「松本楼」と混同していた…)

かつての山水楼は帝国ホテルと道一本隔てた現在の東宝劇場の真ん前にあり、延べ450坪の敷地に豪壮な日本館と洋館が並んでいた(略)大正末期から昭和10年代までの日・満・中の名だたる人々がこぞって愛用した店ということになろう。

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『三つの祖国』上坂冬子 中公文庫

『三つの祖国』によれば、「山水楼」にはラストエンペラーの皇弟・溥傑、犬養毅近衛文麿などが来店していたとか。写真は山水楼の前に立つ満洲国の国務総理大臣 鄭孝胥

 

宝塚劇場の向かいが、こんなにすごいエリアだったとは…。今度、日比谷のMUJIカフェ(追記:2021年10月閉店)に行くときには、3つのレイヤー【高級中華→風船爆弾→アーニーパイルシアター】を感じながら、お茶を飲もうと思います。


風船爆弾を作っていた女学生と、『大家さんと僕』(矢部太郎)の大家さんは同世代

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*1:風船爆弾は少しの気泡があっても爆発してしまうので、まず使用する和紙の検査を丹念に行い、次に5人並んで和紙をこんにゃく糊で糊り付けしていきます。 みんなで声を合わせて、糊が紙の中で固まらないように押し出します。最後に貼ったものを舞台で膨らませてみて、許可になった時はほっとしました。この作業2年間も続けたために、指がふしくれだってしまいました。」

「愛国行進曲」を合唱するおばあさん達(『大家さんと僕』を読んで)

同世代だから唄える「愛国行進曲」(『大家さんと僕』)

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出典:『大家さんと僕』矢部太郎(新潮社)

漫画『大家さんと僕』(矢部太郎)を愛読しています。中でも印象に残ったのが、“入院している大家さんのお見舞いに行ったら、同室のおばあさん達と愛国行進曲を合唱していた”エピソード。「見よ 東海の 空明けて〜♪」と、元気にうたっているのです。*1

「みなさん同世代だから唄ってたの」

同世代だから唄えるこの感じ…わかりますよね。ある世代は、べつに小室哲哉のファンじゃなくてもヒット曲を口ずさめてしまうような感じかもしれません。

官制ミリオンセラーだった「愛国行進曲

 では、大家さん世代がみんな歌える「愛国行進曲」は、どのようにして生まれたのでしょうか?辻田 真佐憲『日本の軍歌』より、「愛国行進曲」の成り立ちを引用します。

1937 (昭和12)年7月7日の盧溝橋事件は、帝国日本の終わりの始まりだった。現地部隊の小競り合いを収拾できなかった日本は、やがて日中間の全面戦争、そして太平洋戦争へと引きずり込まれていく。(略)

 9月、政府は予想外に長期化する軍事衝突を前にして「国民精神総動員運動」というキャンペーンを展開し、泰平を謳歌していた国民の引き締めを図った。同月25日、新設の内閣情報部はこのキャンペーンを機会として「国民が永遠に愛唱し得べき国民歌」を作ることを発表。その歌詞と楽譜を国民から広く募集した。これが三軍歌の二つ目、愛国行進曲である。

こうして 「愛国行進曲」は、翌1938年(昭和13)1月に各レコード会社から一斉に発売され、「第2の国歌を目指したミリオンセラー」になったのだとか。

愛国行進曲」が発売された1938年(昭和13)の少女たち

 先日、手持ちの雑誌(「少女倶楽部」昭和13年8月)を見ていたら、ちょうど「愛国行進曲」を歌っているイラストを見つけました!

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▽「見よ 東海の 空明けて♪」と、「愛国行進曲」を口ずさみつつ提灯行列する少女たち。かわいいですね。この「イラストの女の子たち」イコール「大家さん世代」と考えていいでしょう*2

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narasige.hatenablog.com

愛国行進曲」を歌う少女達の80年後を想像してみる

 ここで突然ですが、“神様のタブレット”的なもの*3を想像してください。それを使って、時空を操作してみましょう。【1938年の少女達】をグっと約80年未来へスライドすると…ほら、【病院で「愛国行進曲」を合唱をするおばあさん達】になるんですよ。

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※『大家さんと僕』は2017年の本ですが、80年区切りで仮に2018としてみました。

1978年(昭和53)の中年世代と、戦争

ついでに、【1938→2018】の80年間を、半分の40年で区切ってみましょう。真ん中は1978年=『スター・ウォーズエピソード4』が日本で公開された年です。

1978年の大家さんは、あたりまえだけど“お年寄り”じゃない。まだアラフィフ…。そう!日本が『スター・ウォーズ』と出会った頃の中年は、みんな戦争経験者なんです。(例:1930年生まれの野坂昭如・1938年生まれのなかにし礼

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 愛国行進曲の踊り方

 想像の世界はこれくらいにして(笑)、先述した『少女倶楽部』の同じ号の「小学校用 愛国行進曲の踊り方」をどうぞ。私、こういう振り付け覚えられないわー。でも、 大家さんと同室のおばあさんたちは、少女の頃ガンガン踊っていたのかもしれません。

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講談社「少女倶楽部」昭和13年(1938)8月号

同じ号の「次号予告」は、まばゆいカラー。弾ける夏休み感!それがまた切ないのです。この少女たちが娘ざかりになるころ、日本は焼け野原なのですから。

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講談社「少女倶楽部」昭和13年(1938)8月号

以上、『大家さんと僕』と「愛国行進曲」の関係でした。

はじめて『スター・ウォーズ』が公開された時代には、まだアラフィフだった大家さん。彼女たちは現在、90歳前後です。もし周囲にそういう方がいたら、お話をうかがえるといいですね。その際の話題づくりに、当ブログの1950年代カラー写真コレクションが役立つかもしれません。こちらにまとめましたので、ぜひご覧ください。

narasige.hatenablog.com

▽大家さんが大好きだった伊勢丹。敗戦直後の伊勢丹の周囲は焼け野原でした。

narasige.hatenablog.com

▽軍歌のヒットを飛ばしたレコード会社が迷走するお話
narasige.hatenablog.com

 

 

*1:軍歌の歌詞について、作者の矢部さんのコメント「ネームの段階で大家さんには毎回見せているので、その時にくわしい歌詞を教えてもらったんです。」

amanoshokudo.jp

*2:大家さんは、2017年の記事に「88歳」とあったので、1929年頃の生まれと思われます。このイラストの1938年時点で9歳くらい

*3:Netflix『ブラック・ミラー』の名作「サン・ジュニペロ」の要領で

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