佐藤いぬこのブログ

戦争まわりのアレコレを見やすく紹介

空の港と、映画館

「港」と洋画の関係

漫画家の久保ミツロウさん(佐世保出身)が、ご自身のYouTubeで"港のあるところは洋画が入ってくるのが早い。米軍や自衛隊が観るから。佐世保は映画館が9つあった"と語っていて、なんだか説得力がありました。

佐世保の映画館の例 Movie Theater, Sasebo, Japan, 1954-55 

Movie Theater, Sasebo, Japan, 1954-55

空の港と、映画館

さて以下に紹介する写真は、日本人を対象としない映画館。どの写真も、「空の港」=飛行場があったエリアです。

博多

1952-53 キャンプ博多シアター James L Blilie Photos of Japan in 1952 and 1953 

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羽田

TIA Base Theater Christmas 1956  TIA=Tokyo InternationalAirport=羽田です。関連話題:羽田空港と、角砂糖のような建物 - 佐藤いぬこのブログ

TIA Base Theater

成増

グラントハイツシアター。成増飛行場跡地。一見、梅雨がなさそうな国に見えます。Grant Heights Theater, 1957 

http://freepages.rootsweb.com/~bulger/genealogy/army34.jpg

立川

1952  立川基地(現在の昭和記念公園)の「立川ベースシアター 」https://www.flickr.com/photos/20576399@N00/14531692696

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米兵は、映画を1人で見ない

余談ですが、立川の洋画(基地の外側にある映画館)は、アメリカ兵が女性同伴で見にくるため儲かったそうです。以下、立川市が発行している映画館インタビュー集から引用しますね。話し手は「シネマシティ」の前身となる映画館で支配人をしていた人。

アメリカの方というのは、必ず女性同伴で、まあ、日本の女性が多かったですけれども、1人で来るというのはそう多くはなかったんですね。ですから、毎日毎日50人というのは、100人ですから、これは考え方によっては、洋画をやっていると言うことで、得をしたわけですね、私ども。それで、例えば「真夜中のカーボーイ」という映画、この時なんて、それこそ夜なんか半分位がアメリカの兵隊さんだったと聞いてます。(『立川の生活誌 映画の街とその時代』立川市教育委員会

 一方、同じ立川でも、邦画専門の映画館を経営していた人は、アメリカ兵に縁がなかったと語っています。

戦後も、うちは米兵のための洋画というのはあまりしなかったですね。ほとんど日本映画専門で。基地内には、彼らの映画をやるところがありましたからね。ですから、改めて見なくても、自分たちが見て、たまに日本の人を連れてくれば入ったかもしれませんけれども、うちあたりは邦画が多かったから、そういう事はあまりなかった。(『立川の生活誌 映画の街とその時代』立川市教育委員会

 「基地内には、彼らの映画をやるところがありましたからね」という証言に注目。「彼らの映画をやるところ」=「立川ベースシアター」なのでしょう。この『立川の生活誌』シリーズは、戦中戦後の聞き書きで、貴重なお話が沢山!おススメです。(もっとも、戦後立川のゼロの焦点的な暗部については、地元の人は語りにくいようで…。立川の“夜”に関する大騒ぎは、隣接する国立市が出している冊子「まちづくり奮戦記」の方に詳しく書かれています。)

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【参考】銀座の標識と、飛行場

敗戦直後の銀座。飛行場の地名がズラリ。一番上が調布。松任谷由美『中央フリーウェイ』の「調布基地を、追〜い越し〜」の「調布」ですね…。

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▽ その他の映画館はこちらにも

narasige.hatenablog.com

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出来たての本願寺(獅子文六「浮世酒場」より)

出来立てホヤホヤの築地本願寺

獅子文六の「浮世酒場」(昭和10)は、酒場に集まった酔客が、東京ポッド許可局のように時事ネタしゃべりまくるスタイルの小説です。昭和10年の時事ネタなので、最新ニュースが"ハチ公の死"や"三原山心中"だったりするわけですが!

narasige.hatenablog.com

 そんな時事ネタトークに、できたてホヤホヤの築地本願寺が登場します。私達にとっての築地本願寺は、重厚な復興建築ですが、「浮世酒場」の頃の本願寺は、去年(昭和9=1934)完成したばかりの斬新な建物。

酔客が本願寺についてあることないことしゃべる様子がホントに勝手すぎて、読んでいるこっちがドキドキする。その中のごく1部を抜粋します。

「あれは古代印度の寺院建築にヒントを得て、さらに西洋近代レヴィユウ劇場や大キャフェの様式を参考にしたのですから、誠に至れり尽せりで」

「寺院は亡魂のアパートですから、やはり耐震耐火の本建築でないといけません。」

「これはまだ秘密ですが、新築の大伽藍の屋根の上に、赤ネオンで南無阿弥陀仏の6文字を輝かす計画だそうで」

築地本願寺関東大震災後の建物なので、「やはり耐震耐火の本建築でないといけません」というセリフが出るんですね。しかし、本願寺をキャフェ様式だとか、屋上に赤ネオンがつきそう、とか言ってるけど…いいのかな💦

博覧会の台湾館みたい?

「浮世酒場」では、酔客に「博覧会の台湾館みたい」とか言われてしまった本願寺ですが、私は、この「樺太館」の外観の方が近いと思います。まあ「博覧会の台湾館みたい」は、異国情緒あふれる建物全般のざっくりとした印象なのでしょうけれど。(大礼記念国産振興東京博覧会)樺太館 | 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ)

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築2年の本願寺・国際盆おどり

雑誌に昭和11年(1936)の本願寺が出ていました。出来立ての本願寺で行われる、はじめての催し=国際的な盆踊り。カルピスの旗が見えますね。

わが国に在留して国際文化の振興に貢献した物故外国人の霊を慰める国際仏教協会主催の国際うら盆の夕。今年はじめての催しなので参会した在留外人は約200人

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ホームライフ (大阪毎日新聞昭和11年8月

▼「踊り出した外国婦人連」。どんな義理で参加しているのかなあ。外国人男性の写真はありませんでした。

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ホームライフ (大阪毎日新聞昭和11年8月

 

築20年たった本願寺

Tokyo 1954 | by George Washenko | Kris_41 | Flickr

ドーン!1954年頃(昭和29頃)に撮影された築地本願寺。敗戦から9年たった頃の写真です。本願寺は1934年(昭和9)に完成なので、この外観で築20年なんです。とてもそうは見えない!(私は築地本願寺の脇を通って通学していました。でも、いつソレが建ったのかなんて考えたこともなかった。1000年前から建っていたと言われても、きっと信じましたよ。)

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Tokyo 1954 | by George Washenko | Kris_41 | Flickr

本願寺盆踊り大会の看板。

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Tokyo 1954 | by George Washenko | Kris_41 | Flickr

伊東忠太の動物の前でポーズ。本願寺を手がけた伊東忠太は、1954年に86歳で亡くなったそうです。ちょうどこの写真の頃に亡くなっているんですね。

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 1950年代のカラー写真がある理由

なぜ1950年代に本願寺のカラー写真があるのか?それは、すぐそばの聖路加病院が接収されていたからでしょう。そのへんのいきさつについては、こちらを見てくださいね↓

narasige.hatenablog.com

 Tokyo 1954 | by George Washenko | Kris_41 | Flickr

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narasige.hatenablog.com

 

【日本】子供が子供をおんぶする1950年代

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おんぶされている赤ちゃんは、1980年にアラサー

 1950年代前半、主にアメリカ人によって撮影された日本には「おんぶ」が沢山登場します。

 ▽なぜ、1950年代に日本をうつしたカラー写真が大量にあるのかは、こちらをご覧ください

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先日、大人のおんぶ写真を紹介しましたが、今回は、子供が子供をおんぶしている写真を集めてみました。1950年代前半というと、現在からの距離感がつかみにくいかもしれませんが、【おんぶされている赤ちゃんがアラサーになる頃=シティポップが流行ってる】を目安にしてください。実際、シティポップの作り手も1950年前後に生まれた方が多いですしね!

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子供が子供をおんぶ(ねんねこ無しタイプ)

では、子供が子供をおんぶする写真を次々と紹介していきます。

  countryside child care, Japan 1950

countryside child care,  Japan 1950

Okinawa and Japan, 1950-55

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おんぶの押し付けあい。(朝日新聞社版文庫2巻より。1948-9年頃)

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 Japan, Okinawa, Korea 1952-55 晴れ着の子の後に、おんぶの子。

2017-12-12-0017 1950-1951 手前の少女達だけ見ると牧歌的ですが、背景にジープ有。

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 1954 奥に紙芝居が。anan創刊(1970)まで、あと16年。

Tokyo 1954

子供が子供をおんぶ(ねんねこ有りタイプ)

1952 箱根 3-31-52- Children at Lake Hakone- Japan | Found Slides | Flickr 

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 1952 箱根 3-31-52- Boy & Baby- at Lake Hakone- Japan | Found Slides | Flickr 

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1954-55 Story Teller, Yokohama, on way to Hakone   Story Teller, Yokohama, on way to Hakone | m20wc51 | Flickr

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1952 4-1-52- Japanese Children- Japan 

4-1-52- Japanese Children- Japan

 Japan,1954-55 flickrで前後の写真を見ると、八王子か立川のようです。

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Japan,1954-55 Halloween, Tachikawa 参考までに、上の写真の撮影者が同時期に撮った立川基地のハロウィーンをどうぞ。基地の中ではフィフティーズが通常運転中。

Halloween, Tachikawa

 おんぶの時に髪をまとめる

1946-47。髪をくるんでおんぶしています。あまりに古風なので一瞬ヤラセに見えますが、富士山の近くにGHQの施設があったために撮られたようです。(知り合いの70代女性も、弟妹をおんぶする時には髪があたらないように頭を布で包むと言っていました。)モージャー氏撮影写真資料 - 国立国会図書館デジタルコレクション

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上の写真を「古風過ぎる!ウソくさい!」と感じましたが、さらに10年経過した1956(昭31)、木村伊兵衛が撮影した江戸川区小松川の写真にも、頭に布を巻くおんぶ姿が複数うつっていました。このスタイル、いつごろまで続いたのでしょう。木村伊兵衛の昭和より

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ラーメンメーカーのロゴみたいですね。

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おんぶのイメージトレーニン

1954東京 人形をおんぶして三輪車に乗る少女。 Tokyo 1954 | by George Washenko | Kris_41 | Flickr

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▽漫画家・松田洋子先生のツイートです。人形ではなく、座布団をおんぶする方法もあるんですね!

▽ 1953東京 人形をおんぶする「東京ボーイ」。鼻水クッキリでの「東京ボーイ」も、1980年にはアラサーです。彼もシティポップを愛聴したのでしょうか。Tokyo-Boy with Doll Stapped to Himself-May 1953 | PhotosByJE | Flick

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以上、おんぶ写真の数々でした。私は10年ほどこのテの写真をどっさり見てきましたが、被写体になりやすい日本の光景ベスト3は、「桜」や「富士山」ではなくて、

でしたね!「霊柩車」についても近々まとめてアップする予定。乞うご期待。

同時期の韓国の子供達のおんぶについてはコチラ

narasige.hatenablog.com

narasige.hatenablog.com

▽こちらも、おすすめ。割烹着で重労働

narasige.hatenablog.com

  ▽女の子の服が赤すぎた時代

narasige.hatenablog.com

  

おんぶ・ねんねこの時代

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戦後、外国人によって撮影された写真には「おんぶ」が沢山登場します。被写体になりやすかった日本のベスト3は、以下のとおり(わたし調べ)↓

今回は、昭和のおんぶ写真をご紹介しますね。

▽子供が子供をおんぶする写真はこちらをご覧ください。

narasige.hatenablog.com

1950年代のおんぶ

1950年。占領下のおんぶ。背景の車や、建物の色に注目。

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 ねんねこの色は鮮やかだけれど、背景の人々がすごく地味。

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Family at Yoshimi Caves, Sept 1951

Family at Yoshimi Caves, Sept 1951

Japan and Korea, 1950-55 「Japan and Korea」とありますが、この時期(朝鮮戦争)の写真の数々は、「Japanの復興」と 「Koreaの戦中」がセットになってネットにあがっています。参考:休憩所としての日本 - 佐藤いぬこのブログ

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洗濯中。 village laundromat , Japan 1950 

village laundromat , Japan 1950

紙芝居。右端におんぶ。真ん中の子の顔立ち、誰かに似てる。荒川良々?Tokyo-A Traveling Storyteller-May 1953 

Tokyo-A Traveling Storyteller-May 1953

仙台1950。土管の上の美脚。両サイドの人は地下足袋。 457 - summer50 - Sendai | NorbFaye | Flickr 

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Japan 1949-1950 女の子の服がとにかく赤い。シックな子供服がない時代。(関連話題:真っ赤な服の女の子たち - 佐藤いぬこのブログ

Japan 1949-1950

1952-1953 京都。おぶわれている女の子が20歳くらいになる頃=1973年。彼女はユーミンの「ベルベッドイースター」(1973)を聴き、"ママが若い頃好きだったブーツをはいていこう"という、無茶な歌詞と出会うことでしょう。 James L Blilie Photos of Japan in 1952 and 1953 

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Hiratseka, March 1953 おんぶで自転車。赤い足袋と下駄。お父さんはツーブロック

Hiratseka, March 1953

Japan,1954-55 右端に注目。おじいさんが、おんぶしてます。左の男性2人は、たぶん米兵。flickrで前後の写真を見ると、撮影場所は八王子か立川のようです。2019-04-04-0015 | Japan,1954-55 Photographer unknown | m20wc51 | Flickr f:id:NARASIGE:20210205111740j:plain

上の写真のおじいさん部分を拡大したところ

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Japan, 1955-59

Japan, 1955-59

Japan,1954-55 子供が子供をおんぶ。

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1954年、銀座4丁目の交差点です。小さな風呂敷包みとハダシに下駄の女性は、戦前と変わらぬ装い。Tokyo 1954 | by George Washenko | Kris_41 | Flickr

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ベビイさん

銀座「キャリング ベビイさん」Tokyo-Ginza-Carrying Babysan-May 1953

Tokyo-Ginza-Carrying Babysan-May 1953

日光1952 「ママさん&ベビイさん」。3-28-52- Mamasan & Babysan- Nikko- Japan | Found Slides | Flickr

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【参考】上の写真の説明に「Babysan ベビイさん」と出てきますが、当時、日本の現地妻(的な女性)を描いた同名の漫画がありました。漫画の「Babysan」は、英語のwikiがあります。

babysan-servesfish

 

1960年代以降のおんぶ

時代は10年ほど飛んで1960年代のおんぶ写真。「BOAC」(英国海外航空・現在のブリティッシュ・エアウェイズ)の乗務員による撮影。BOAC photos taken 1965 to 1968 

In Tokyo

おんぶ・ミニスカート・シュミーズちらり。世代で装いが異なる時代Kamakura-01 | Donald Boyd | Flickr 

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▽1970年代のおんぶはこちら。

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 韓国のおんぶ

ネットには韓国のおんぶ写真も多いです。色が鮮やか。

57 - Oct48 - Seoul, Korea,

26 - Oct48 - Korea  

Korean Children


 以上、おんぶ写真の数々でした。いかがでしたか?話は飛びますが、以前、芸人のマキタスポーツ氏が「今どきのミュージシャンは“ランド”を作らない。等身大の生活を歌っている」とPodcastで言っていたのが、すごく記憶に残っています。(「ランドを作らない」というのは、「(佐野)元春ランド」に憧れて上京したマキタスポーツが、現実の街と歌詞の差にショックを受けた…という話の流れで出ていました。)

「おんぶ」や「肥桶を運ぶ牛の車は、「ランド」に入れてもらえないイメージの代表でしょうね。もっとも現在は、昭和テーマーパークという新しい「ランド」があるけれど!


▽1950年代のおんぶ写真が残っている理由

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焼きそばパーマの時代

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戦争が終わると、すぐパーマ

敗戦間もない頃って、意外にパーマが爆発してるんですよ。獅子文六の昭和22年の短編『無頼の英霊』にも、田舎の娘たちが戦争が終わったとたんパーマをかけて「焼ソバのような総縮髪」になる話が出てきます。

1年もたたないうちに、村の気風の変化は驚くべきものだった。(略)娘たちは親がヤミ売りに匿してある米を盗み出し、四里離れた市へパーマをかけに行くが、「焼ソバのような総縮髪」になって帰ってきた。

親が隠したコメを盗んでまでパーマをかける熱意がすごい!

では、これから本当にあった焼きそば系パーマ(中には天然パーマの人がいるかも…)と、焼け残った着物の組みわせをご紹介しますね。時期はだいたい敗戦〜数年前後。※すべて、元からカラー写真です。

▽1946-53頃。彼女は派手だけど、背景の人たちはすごく地味な例。

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Dinner Party | Japan 1949-51 Photographer: unknown | m20wc51 | Flickr  1949-51 料理の提供も焼きそばパーマで。占領下の「ディナーパーティー

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モージャー氏撮影写真資料 - 国立国会図書館デジタルコレクション 1946-1947。 

f:id:NARASIGE:20210118115729p:plain1948頃。右端の人、映画「獄門島」の浅野ゆう子みたいになっている。

Japan, 1948 1953頃、立川基地のアメリカ人が撮影した写真。背景の看板が横文字です。James L Blilie Photos of Japan in 1952 and 1953

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▽立川のナイトライフはこちら

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モージャー氏撮影写真資料 - 国立国会図書館デジタルコレクション 1946-1947 手をつないでポーズ。

f:id:NARASIGE:20210207131912j:plainどどどどどー!

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FH000073 メイドさん(おそらく沖縄)

11949-1950頃。 左手に見える外国の子供と、芝生の庭。彼女もおそらくメイドさんか。雇い主から「キモノ着てみてよ。もう、なんでもいいから」とリクエストされたのかもしれません。

Japan 1949-19501949頃、仙台のメイドさん。金髪の子供・芝生・焼そばパーマ。

Japan - Maids and John Turman - Sendai1948頃「パーティーin別府」。洋装・和装とも、チリチリした髪型。

2015-04-09-00081953-1954頃。顔がそっくり。

2019-08-21-00151953-54 頃。関連話題:休憩所としての日本 - 佐藤いぬこのブログ

2019-08-22-0008 モージャー氏撮影写真資料 - 国立国会図書館デジタルコレクション 1946-1947 「横断はここから」の標識がやたらと多い。進駐軍ジープ対策か。f:id:NARASIGE:20210128111356p:plain

モージャー氏撮影写真資料 - 国立国会図書館デジタルコレクション。焼け野原の写真満載の「モージャー氏撮影写真資料」に、突然そびえたつ「ビューティーセンター」。

f:id:NARASIGE:20220122093637p:plain▽ずらりと並んだ"Oki Girls"(沖縄の少女達)。後ににカマボコ型の施設。https://www.flickr.com/photos/20903551@N06/4094200030

f:id:NARASIGE:20210109104956j:plain"Oki Girls"拡大。

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1952-55  朝鮮戦争の頃2017-12-12-0004

1953頃「伊勢崎町入口 吉田橋」横浜開港150周年 みんなでつくる 横濱写真アルバム

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暮しの手帖や、サザエさんまで

暮しの手帖」の髪型もチリチリです。敗戦間もない頃の暮しの手帖終戦後にわかに起こった でれでれなよなよの和服ブーム」に抵抗するため「紺がすり」の特集を繰り返したのだとか。「紺がすり」をキリっと着ているようだけど、髪型はチリっチリなんですね。(『暮しの手帖を通してみた戦後の3年間 なんにもなかったあの頃』第100号1969年より。)

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1950(昭和25)、子供もパーマ。左端がサザエさん。(朝日新聞社版4巻)

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1946-1947 焼そばパーマではないけれど、サザエさん的なウェーブを作っている人たち。モージャー氏撮影写真資料 - 国立国会図書館デジタルコレクション 

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なかには、まっすぐな髪の人も

1946-1947 もちろん、焼そばパーマじゃないまっすぐな髪の人も多かったとは思います。私らが思い浮かべる敗戦間もない頃の髪型ってこんな感じですよね。モージャー氏撮影写真資料 - 国立国会図書館デジタルコレクション

f:id:NARASIGE:20210128101932p:plain1946-1947 直毛でも若い娘のウキウキ気分が噴出している例。花森安治に「でれでれ なよなよの和服ブーム」と文句つけられそう。モージャー氏撮影写真資料 - 国立国会図書館デジタルコレクション  

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戦争を生きのびた娘たち

若い娘の笑顔を見ていると忘れがちですが、彼女たちは(個人差はあれ)戦争を生き延びてきたのです。先述の通り、モージャー氏撮影写真資料には、焼け野原のカラー写真が多数あるので、ぜひあわせてご覧ください。

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 結婚相手の戦死・風俗の逆転

この時代の若い娘の装いは「あら〜、意外と派手なのねえ」では済まされないものがあります。彼女たちは、結婚相手となるはずの青年達が戦死している世代。このあたりの事情はひとり暮しの戦後史―戦中世代の婦人たちに詳しいです。

  また、焼け残った着物はシャッフルされて、由来がわかりにくくなっているケースも。(例:都会人が田舎に着物を持っていって米と交換。あるいは、ある種の組織*1が、焼け残った着物をストックして女の子達に着せるなど…。)

当時の事情を頭のスミにおくと、彼女たちの笑顔がすこし違って見えるかもしれません。

 【シャッフルの例】武井武雄が描いた風俗の逆転。戦中・戦後気侭画帳 (ちくま学芸文庫)より「都会の娘は晴れ着をみんな食糧に代えてしまった。」

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*1:色の道商売往来』では小沢昭一がRAA(特殊慰安施設協会)の創立メンバーに、“防波堤”の準備についてインタビューしています。「着物なんかは三越白木屋の残ったものを全部抑えちゃった。化粧品は資生堂の倉庫をみんな抑えた。」

衣紋グニグニ

名取洋之助が撮った東京の芸妓(昭和10年5月アサヒカメラ)。襟が、けっこうグニグニ。f:id:NARASIGE:20210123103009j:plain

説明文を拡大「マツダ写真電球1個を使用」

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上と同じ写真が、対外宣伝グラフ誌「NIPPON」1935年4月号の「日本女性の魅力はどこにあるか」という特集にも使われていました。対外宣伝グラフ誌「NIPPON」には、"YOUは、こんなJAPANお好きでしょ…? "みたいな写真が沢山ありますが、この特集では、①衣紋を抜かずに正座している女性と、②衣紋を抜いて、クニャッと座る芸者の両方の写真が出ています。シロウト女性とクロウト女性の両方の魅力を外国に発信しているのでしょう。(「名取洋之助と日本工房」毎日新聞社より)

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このテの、衣紋を抜いた写真を見て思い出すのが、平身傾聴裏街道戦後史 遊びの道巡礼 (ちくま文庫)に出てくる元芸者のママのインタビューです。戦前、厳寒の京都で寒さに耐えた思い出話が、美談風になっているのが納得できません😭😭。命にもかかわる話なのに。ほら、昔って、ふとしたきっかけで若死にするじゃないですか!(もっともこの本は、これ以上にエグい話がてんこ盛りなのですが。)

永六輔】京都の大学に入って、舞妓と恋愛するっていうのは夢だったな。

【ママ】一番印象に残っているのは、冬、寒い寒い時に、ラグビーの練習の帰りに「あした試合やさかい、来てくれよ」ておいいやす。みんな自分のひいきの妓を…。(略)同志社祇園町どすねん。私ら、3年間、肩掛けできまへんねん。生意気なんで絶対に…。火鉢も当たれしません。怒られますねん。ほな雪が降ってきました。そしたら、応援に来てはる学生はんが、後から紙を襟へ入れてくれはるのどっせ。紙、ぬくおすな。

小沢昭一】いい話だなあ 

 飲み屋のママの「紙、ぬくおすな」という言葉を見ると、うっかり"昔の人の芯の強さ・心意気"みたいに美化しそうになるけれど、寒さや病に負けて脱落した舞妓や芸者は、後年インタビューに応じることができません。私らは、生き残った勝者=健康運・ダンナ運など総合的に恵まれた芸者の思い出しか読めないわけです。(実際、このママも、有力者との関係が途切れないことを誇っている。)そのことを忘れずにいたいもんです。

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「団体旅行」(獅子文六)

 

 

断髪女中 ──獅子文六短篇集 モダンガール篇 (ちくま文庫)

獅子文六が描く戦時下の団体旅行

獅子文六「団体旅行」(昭和14)(断髪女中 ──獅子文六短篇集 モダンガール篇 収録)は、戦時下の団体旅行を舞台にしたコメディです。(山崎まどかさんセレクトが素晴らしい短編集「断髪女中」。中でも戦時下を描いた作品は、コロナ禍の今読み返すと新しい発見があります!)

 

主人公は、作家志望の青年。万年スランプの彼は、静かな温泉で気分転換をしたくなり、居候先の叔父に旅行をねだります。しかしこの叔父さん、日露戦争の頃に御用船の船長をつとめたようなカタブツ。青年は「この時局に、いい若い者が温泉行きとは何事であるか」と怒鳴られるのを覚悟します。ところが意外や意外、叔父さんは、団体旅行ならOK、団体旅行を通じて個人主義にカブれた根性を叩き直してこい、と強くすすめるのでした。(叔父さんは「個人主義」が大嫌いなんです。)で、青年は仕方なく、苦手な団体旅行に参加するハメに。

 一応、時局に遠慮する

 作品中の団体旅行の規模は、"昨年(昭和13年?)は伊香保行きに200人参加、今年は伊豆の温泉巡りで100名参加"となっています。けっこうな大人数ですよ!東京駅に中高年ばかり100名が集合し「一同は下駄の音も喧(かしま)しく」改札口を通過します。

しかも青年は団体旅行の「参加章」として、胸に「バラ色のリボンのたれた仰々しい花飾り」をつけられてしまう。派手すぎるじゃないか、と業者に抗議すると

「なアに、貴方、これでも時局に遠慮して、質素にしてるんですよ。ほんとは、赤手拭、黄手拭を首に捲いて貰うと遠くから目について迷子が出ないから、世話人ラクですがね。」

と、あっさり流されます。でも一応は「時局に遠慮」して、赤手拭・黄手拭を自粛しているんですね。

 

▽参考までに当時、鉄道大臣が雑誌に寄稿した文はこんな感じ。列車の大混雑に理解を呼びかけています。

国鉄の最近の列車の混雑ぶりは、鉄道省としては全く、乗客に申し訳なく思っている次第である。

何しろ事変以来車両が非常に不足している上に、時局産業の繁盛やら事変景気やらで乗客の数が、また非常に激増してきたので、今すぐ混雑緩和と、いうような方法がないのである。(昭和14年9月号「ホームライフ」大阪毎日新聞社より)

 昭和14年の段階では、まだ、思いっきり旅行しちゃうんだなあ。

 成金令嬢の苦悩

さて「団体旅行」(昭和14)では、恋も芽生える。青年は、列車で相席になった成金令嬢と仲良くなります。この令嬢はもともと貧しい家の出身。ところが、父親の鉄工場が支那事変の勃発と共に」大繁盛し、いきなりリッチになったのです。

支那事変の勃発が昭和12年夏。

『団体旅行』掲載は昭和14年夏。

なんと、たった2年で大金持ちに?!スピード成金です。

 

【参考画像 】成金令嬢の父の工場は、支那事変の勃発と共に」めちゃくちゃ儲かったという設定。

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昭和13年2月 新潮社「日の出」

実はこの令嬢、綴方教室 (岩波文庫)」豊田正子(作中では正田豊子)の「ライヴァル」という設定。令嬢は貧乏時代に、貧しさを明るく書いた文章が評判をよび、雑誌に何度も掲載された経験があるのです。

令嬢は「ライヴァル正田豊子を見返さんと」がんばるのですが、なにぶんリッチになったので、もうリアルな貧乏が書けません。前はスラスラ書けたのに、まるで「停電したように」書けない!この時の令嬢の焦りっぷりが笑いのポイント。彼女もしっかり「時局」を反映したキャラなんですね。

 獅子文六の「団体旅行」は、非常時&賑やかさがギュっと詰まった作品です。オシャレ度は低めの作品ですが(笑)、ぜひ読んでみてください!

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 参考画像 下駄と旅行

▽これは、団体旅行のイメージ画像。戦後のもので外国人が撮影した写真です(昭和25年頃)。こういう装いだと、下駄の音も大きくなりますわねえ。胸にお揃いのリボンもつけている!サンバイザーの存在を意外に思われるかもしれませんが、実はサンバイザーは戦中の写真でもけっこう見かけます。

Japan 1949-1950

中高年が、ドドドド〜っ!

Japan 1949-1950

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